衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年12月07日    土曜日     第1 回の開示 合計4295回の開示

十二因縁の観点から見る意根の心所法

十二因縁において説かれる無明より行が生じ、行より識が生じ、識より名色が生じるという三つの段階は、衆生の生老病死の苦しみが全て意根の無明によって引き起こされることを明らかに示している。意根の無明により、衆生は善悪の業と六道輪廻を有するようになる。つまり意根の無明は一切の煩悩を含み、あらゆる煩悩心所法を具えている。衆生は一切の煩悩を有するが故に分段生死と変易生死が生じる。しかし意根の無明が完全に断じ尽くされた時、衆生は仏となり、この時意根は一切の善心所法を具足し、恒常的に意根の働きに伴うようになる。以前は恒常的ではなく、特に凡夫の段階では、ほとんど意根に伴わなかったのである。

要約すれば、意根は意識に劣らず一切の心所法を具足している。もし意根が一切の煩悩心所法を具足していなければ、心はそれほど染まらず、生死の業を造作することも少なく、苦受も少ないはずである。しかし衆生は無量劫以来、一切の生死の苦を具足し、一切の生死の業を造作してきた。これは意根が一切の煩悩心所法を具足していることを示している。もし意根が一切の善心所法を具足していなければ、心は完全に清浄とはならず、仏となることはできない。しかし一切衆生は最終的に必ず仏となるため、意根は一切の善心所法を具足しているのである。ただしこれらの善悪の心所法は恒常的に意根の働きに伴うものではない。凡夫衆生の意根には、我見・我慢・我執・我痴という四つの根本煩悩のみが絶え間なく伴い、刹那も離れることがない。これら四つの根本煩悩が生死の業と苦の根源であり、これらによって他の煩悩が現行するのである。

もし我見の煩悩が断たれれば、他の三つの根本煩悩も次第に断じられ、四つの根本煩悩が断たれると、他の一切の煩悩も全て断じ尽くされ、分段生死は終了する。故に衆生が我見を断じた後、我見の煩悩は意根に恒常的にも断続的にも伴わなくなる。我執・我慢の煩悩が断じ尽くされると、これらは永遠に意根に伴わなくなる。我痴の煩悩も同様で、一旦断じ尽くされれば、意根の現行する煩悩は消滅し、命終すれば三界を出離し無余涅槃に入るのである。

凡夫衆生の意根は善心所法を具足せず、恒常的に伴うこともなく、時折現れるに過ぎない。しかし煩悩心所法が断除されると、善心所法は次第に具足され、恒常的に意根に伴うようになる。これが聖者の心の働きであり、もはや凡夫のものではない。要するに凡夫の意根には四つの根本煩悩のみが恒常的に存在し、他の煩悩は断続的に現れる。『瑜伽師地論』もこのように論じている。凡夫の意根の善心所法も断続的であるが、煩悩を断じて聖者となれば、善心所法は恒常的となるのである。

近年、多くの人々が意根の心所法を大きく誤解している。その原因は禅定と智慧が不足し、意根の心行を直接観察できず、理解力も不十分なため、菩薩の論述を誤解したことにある。この誤解は今日まで続いている。大菩薩方の禅定と智慧の境地には差があるため、論述に矛盾が生じることも避け難い。そのような場合は最も深い智慧を持つ弥勒菩薩の論述を拠所とすべきである。もし経典による裏付けがあれば経典を優先し、なければ実証的な事実を基準とすべきである。畢竟、事実は雄弁に勝るからである。

——生如法師の開示
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