ただこの一枚の図が、『金剛経』全体を貫くことができる。四相は消え、三界は消え、生死は消え、仏相は消え、仏法は消え、涅槃は消え、解脱は消え、此岸は消え、彼岸は消え、何もかも消え去り、ただ自性清浄心だけがぽつんと寂として、天地の間に存在しない。ゆえに仏となることは無所得であり、無所得だからこそ仏となれる。修行は減法であり、負担を減らすことである。すべてを減らし尽くせば仏となるが、仏さえも減らされる。修行すら存在せず、仏法を学ぶ者は事なきに騒ぐ者、迷いと倒錯の者である。成すべき仏はなく、学ぶべき法はなく、説法する者には説くべき法がない。今後誰かが師に無理に説法を強要したら、すぐに殴りかかればよい。何を説くことがあろうか。
『金剛経』を般若経典に分類するのは、実にその価値を過小評価している。『金剛経』はまさしく成仏の経典、唯識の経典であり、一歩で空に至り、一歩で仏となる。一切の法は空であり、三十七道品は空であり、菩薩の六波羅蜜は空であり、菩薩の十波羅蜜は空であるが、菩薩は無為に住せず、有為を尽くさない。なすべきことをなすのであり、六波羅蜜も十波羅蜜もすべて満たす。そうでなければ空にはなれず、負担を減らすことはできない。負担を減らすとは何か。肩に担いだもの、背中に背負ったもの、手に持ったもの、心に抱いたもの、それら満ちあふれたものをすべて降ろし、投げ捨て棄て去ることである。一切の負担を放下し、有相無相の法を空じ、捨て去り不要とする。捨てる、捨てる、捨て尽くす。捨て尽くせば本来の時に戻る。無一物でありながら一切を持つことができる。
どうすれば空になれるのか。意識でこれらの理をあれこれ考え、理解すれば空になれるのか?意識が牢獄のような三界の枠を無くし空に変えられるのか?意識にそんな力があるのか?まったくない。ゆえに意識でむやみに考え、推測し、もがくな。意識を廃してしまえば損はない。
意識を廃すれば、直接に意根を用いる。意根を用いれば三昧が現れる。三昧の中では一切の法が空であり、空すらも空となる。鬼の影さえ見えない。意根はかくも強大である。服しない者は意識を尊ぶ者として閻魔大王のもとへ議論に行けばよい。閻魔大王が真実を見せてくれる。仏は理屈を言わず、ただ閻魔大王が君を迎える。もし閻魔大王を待てないなら、因果が先に現れ、現世報が出現する。これが最も物事を説明する。因果と現世報は突き詰めれば如来蔵が支配し、如来蔵が決定権を持つ。仏でさえ決定権はなく、仏は事を管轄せず、如来蔵ほどの権力はない。
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