衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年12月03日    火曜日     第1開示 合計4292開示

意根の二種の煩悩心所有法

意根の煩悩心所法は二種類に分けられる。一つは常恒に意根の現行に随伴し、一瞬たりとも絶えることのない煩悩心所法であり、例えば『瑜伽師地論』に挙げられる我見・我慢・我愛・無明(我痴)である。もう一つは常恒に意根の現行に随伴しない煩悩心所法であり、これは上記四つの煩悩以外の心所法を指す。例えば瞋・喜・怒などの大随煩悩・中随煩悩・小随煩悩がこれに当たる。もしこれらの煩悩が恒常に現行するならば、衆生の自他の身心は深刻な損害を受け、生活は混乱し、生命は長く続かない。ただ我見・我愛・我執・我慢の煩悩こそが凡夫衆生において恒常に現行する煩悩なのである。

すべての人々は深遠な法に遇うと、現前に観行することができず、わずかに表面の意味を理解できるだけであるため、ひたすら書物の内容を暗唱するほかない。十二因縁の法は、衆生が六道において生死流転を休みなく繰り返すのは、まさに意根の無明によるものであることを示している。もし意根に無明がなければ、十二因縁は尽き、衆生の煩悩は尽きて、生死から解脱するのである。無明が行を縁とし、行が識を縁とする。この七文字を充分に理解すれば、意根に果たして瞋があるかどうかがわかるだろう。もし意根の無明に瞋が含まれなければ、六識に瞋の業を造作させることもなく、生死の業はほぼ半減する。一方、意識に瞋があっても問題ではない。なぜなら意識は瞋の業を造作することを決定できず、したがって瞋の業の種子も生じず、瞋による生死の業も存在しないからである。

さらに言えば、意識の瞋はどこから来るのか?どのように出現するのか?多くの人々は、現前に意根に瞋があるかどうかを観察することも、意根と意識の論理的弁証法的関係を明らかにすることも、六識の身口意の行いの由来を知ることもできず、ただ書物の内容を暗唱するだけで、自分自身の浅薄な理解が正しいと思い込んでいる。例えば『楞厳経』に説かれるように、衆生の生命の最初期にはただ意根と阿頼耶識のみが存在し、意根が念を起こした後に初めて天地万物と五蘊・六識が生じる。もし意根に瞋がなければ、意識の瞋はどこから来るのか?瞋の業はどのように出現するのか?衆生同士が互いに争い奪い合うのは何故か?どのようにして生じるのか?

意識の煩悩は伏せ除く(降伏)ことが容易である。理論を理解し、理論を明らかにするだけで、効果的に煩悩を制御できる。しかしながら、意根が煩悩を断じないため、根本的な問題に遭遇した際、意識がわずかに油断すると、煩悩は即座に現れ、人は本性を現す。例えば夢中において、あるいは酒に酔った後、意識が弱まると理性が失われ、意根の煩悩がすべて表出する。酒酔い後の瞋心や瞋行は、果たして意識のものだろうか?なぜ酒後はより一層悪業を造りやすいのか?なぜ酒後に本性を現すのか?なぜ酒後に人柄がわかるのか?

煩悩を伏せる(降伏)とは、意識の煩悩を断じることを指すが、これはあくまで一時的なものであり、永続的なものではない。もし意根の煩悩が断じられなければ、意識によって断じられた煩悩は因縁が具足した時に再び生起し、根本的に制御できない。したがって、瞋の煩悩は第三果(阿那含)において初めて断じ尽くされる。これはすなわち、意根が第三果において初めて瞋の煩悩を断じ尽くすことを示している。一方、意識の瞋の煩悩は、凡夫が道理を明らかにする段階で断除できるが、究極的ではない。特殊な縁に遇えば、意識は再び瞋の煩悩を現す。例えば、性格が温和で、非常に穏やかな気質を持ち、普段はどのようなことがあっても決して瞋を生じない人々がいる。これは意識に瞋がない状況である。しかし、いったん特殊な状況に遭遇し、その人の限界に触れると、こうした人々でも殺人を犯す可能性がある。これこそが意根の瞋が現行するのである。


——生如法師の開示
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意根の煩悩心所法

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