衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年10月28日    月曜日     第1 回の開示 合計4275回の開示

熏染された意根を調伏し、煩悩を軽減する方法

淨和の観行:最近、私が意根について少し体得したことがあります。それは、意根の「動作」が層状になっていると感じることで、五倶意識が生じる前は主に疑の性質を持ち、五倶意識が生じた後に初めて明らかな貪・瞋などの性質が現れるということです。日常生活では通常、貪・瞋などの習気が生じてからでないと反省できず、座中ではできる限り五倶意識が生じた直後に反省観照をしています。しかしこの反省して手放す過程には、通常意識を用いてある程度の導きを行わねばならず、反省したら即座に手放すことはできません(これは意根が五蘊の空性を完全に認めていないためです)。今悩んでいるのはこの点です。

評:意根の最初の疑いは法への不確実性であり、故にまだ決断を下せません。一旦内心で確信が生じ疑いがなくなると、決断が生じ、その決断後に六識が生起して意根の考えに従って造作を行います。造作の過程で、意識は法を観察し、観察中に自らに貪瞋痴があることに気付きます。この「自ら」とは意根を指します。意根の貪瞋痴は六識の造作を通じて現れ、この時独頭意識は観察力あるいは反観力を有しています。一般的に、独頭意識の覚悟が強くない場合、身口意行の造作が完了した後に初めて自らの貪瞋痴の習気を観察するため、一歩遅れます。もし独頭意識の覚悟力が強ければ、造作を決めようとする時に既に自らに貪瞋痴があり、造作しようとしているのが貪瞋痴の業行であることに気付き、造作しないと決断します。この決断が意根に伝わり、意根が再び自らの決断を下し、最終結果は意根の覚悟次第となります。

もし意根の覚悟性が強くなく習気が重い場合、依然として自らの決断を堅持し、身口意行を変えようとせず、煩悩を現行させ続けます。しかしそうであっても、独頭意識の反観は依然として効果があり、意根に種を埋め、意根を熏習させ、このような行為が貪瞋痴であり、良くないこと、すべきでないことを意根に認識させます。次に意根が再び煩悩を現行させようとする時、心に躊躇いと障害が生じ、煩悩の力度は軽減されます。意識が繰り返し阻止し諭すことで、意根の心は変化し、煩悩の造作を継続しなくなります。故に修行は一朝一夕で成るものではなく、意識の毎回の反観は全て意根への熏習であり、煩悩を消除する種を埋めます。これらの種は遅かれ早かれ根を張り芽を出し、花を咲かせ実を結びます。意根が累生累劫に積み重ねた煩悩は山の如く、短時間で変えられるものではありません。忍耐強く熏修することが必要で、常に覚悟を保つべきです。

——生如法師の開示
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