衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年10月26日    土曜日     第1開示 合計4274開示

諸仏菩薩はなぜ悪薫を受けないのか

もし衆生が世に処する中で、悪縁に遇えばなお染まって煩悩が生じるならば、それは衆生の意根が煩悩と相応しており、まだ煩悩を断じていないことを示している。ゆえに縁に遇えば染まり、縁に遇えば悪業を現すのである。諸仏は三大阿僧祇劫の修行を経て、とっくに貪・瞋・痴・慢・疑・悪見など一切の煩悩染汚、および一切の煩悩習気を断じ尽くし、余習もなく、五濁悪世に来たりて諸々の煩悩ある衆生と接触しても、衆生の煩悩によるいささかの染着や汚れを受けることは根本的にありえない。心は永遠に清浄無垢である。仏は初地においてすでに煩悩を断除し、心に染汚はなくなっていたが、その時点ではまだ煩悩の習気が断じ尽くされていなかったのである。

諸仏が初地以前から断除し始めた煩悩は、第六識・第七識ともに断除する煩悩である。第七識が煩悩を断じて初めて識を転じて智と為し、平等性智を具え、一切の法を平等無二と観じ、自他の区別がない。ゆえに私心がなく、人や事柄に対して平等である。第七識である意根が煩悩を断じたため、後世いずこに生まれ変わろうとも、意根には煩悩がなく、染まることがない。しかし煩悩の習気が断除されていない時は、習気が偶に現行することがあり、これは避けがたい。意識もまた環境に染まることが偶にある。意識は染まることがあって若干の煩悩を呈することはあっても、それは速やかに消滅し、持続・固着することはなく、意根に影響を及ぼして染めることもない。

意根が染まらず、それ自体に煩悩がなくなっているからこそ、意識の煩悩は断じやすいのである。そうでなければ意識は意根に左右され、煩悩は断じ難く、たとえ断じても再び生起する。八地以上の菩薩は、意識がもはや染まることがなく、煩悩の習気を現行せず、諸仏の意識はさらにいささかの染着や汚れも受けず、煩悩も習気も現れない。色を見ても貪らず、財を見ても愛さず、権勢や地位を求めず、瞋らず怒らず、煩わず焦らず、心は柔軟で調和し、寂静極まりない。これに対し凡夫衆生の第六識・第七識は一切の煩悩を具足し、縁に遇えば直ちに染まり、往々にして環境に順応し、環境に対する抵抗力は乏しい。色を見れば愛し、財を見れば貪り、権勢を好み、名利を追求し、逆縁が現前すれば瞋怒が常に心に随い、私心・我執が極めて強い。

ここから明らかなように、凡夫衆生の意根は貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の一切の煩悩を具足し、意識は意根に随うため、煩悩もまた常に現前する。染まる縁に遇えば、意識は容易に染まってしまう。意根が三世(過去・現在・未来)を繋ぎ、かつ一切の煩悩を具足しているからこそ、生死輪廻は絶えず、中有(中陰身)および後世に生まれ出づるや、一切の煩悩を具足して前世と異なることはなく、生々世々煩悩が止むことがないのである。ただし、我見・我執・我慢・我痴の煩悩は除く。これらは常に恒常的に意根に伴って絶え間なく運行し、一時も停止することはない。他の煩悩は恒常的に意根に伴って運行するものではなく、縁に遇って初めて現行し悪業を造り、業種を残存させて後世の生死輪廻を延長させるのである。

——生如法師の開示
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