ご種(ごしゅ)と習気(じっけ)の関係は、その理(ことわり)が非常に深遠であり、唯識(ゆいしき)の種智(しゅち)の範疇に属します。習気とは、長く慣れ親しんだ法(ほう)が勢いを得て習慣となり、この習慣が身・口・意(しん・く・い)を支配するようになったものです。業行(ごうぎょう)を造作(ぞうさ)した後、それが種子(しゅじ)として蔵識(ぞうしき)に蓄えられると、業種はより深く、より重くなり、これによって今後(こんご)の習気はさらに強まります。
習気もまた業種から生じます。長く続ければ習慣となる以上、必ず業種が存在するのです。習気は意根(いこん)によって顕現(けんげん)され、意根は六識(ろくしき)の身・口・意の行(ぎょう)を主導します。造作した後、それが業種として蓄えられ、後世(ごせ)に現行(げんぎょう)することを習気と呼びます。業種とは、意根が主導して業(ごう)を造り形成したものであり、意根は業種と完全に相応(そうおう)しています。意根がどのような性質であるかによって業種もまたその性質となり、業種がどのような性質であるかによって意根はその性質の業行を現行します。では、無我(むが)の業種を残すためにはどうすればよいのでしょうか? 無我の習気を形成するためにはどのように修行すべきでしょうか? 後世に生まれながらにして五陰(ごおん)の世間(せけん)を空(くう)と見るためには、今世(こんせ)どのように修行すべきでしょうか?
須菩提(しゅぼだい)は母胎(ぼたい)の中にいるときから、世間が空寂(くうじゃく)であることを知っていました。この習気はどれほど深いものでしょうか? 修行によって空を証得(しょうとく)した期間が無量劫(むりょうこう)を超えているのです。これほど長い間、心が空であったのですから、当然ながら空という良き習慣は無量劫もの間続いていたことになります。須菩提の心が空であるという習気は、今世の意識(いしき)による薫習(くんじゅう)とは全く関係がありません。意識が現れていないときでさえ、意根は空であったのです。このような心の空はなんと軽やかで自在(じざい)で解脱(げだつ)していることでしょうか。
理論上の空は、俗法(ぞくほう)に直面すると空ではなくなり、死ぬときにも空ではなくなり、死後はさらに空ではなくなり、後世ではもはや空となることはできません。ですから、理論上で何か夢幻(むげん)のごとくであると安住(あんじゅう)したり、真如(しんにょ)や法性(ほっしょう)であると説いたりするのは、それは自欺(じき)にほかならず、何の役にも立ちません。事が目前に迫れば、すべきことは相変わらず行い、臨終(りんじゅう)には相変わらず死を迎えるだけであり、生死(しょうじ)の問題を解決することはできません。理論上のこうした理解は、ひとたび事に遭遇(そうぐう)すれば正体を現し、本性(ほんしょう)を露呈(ろてい)してしまうのです。だからこそ、役に立たないと言われるのです。意根が証得されると、業種が形成され、生々世々(しょうじょうせせ)にわたってその利益(りやく)を受けることができます。事に遭遇しても本性に戻ることはなく、受生(じゅしょう)の際にも迷い(まよい)ません。もし住胎(じゅうたい)のときにも迷わず、出胎(しゅったい)のときにも迷わず、成長の過程でも迷わないならば、それは恒時(ごうじ)の解脱であると言えます。
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