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日常法話

2024年09月21日    土曜日     第1開示 合計4257開示

前五識に思惟作用はあるか

前五識にも五遍行心所法があります。作意・触・受・想・思ですが、第六・七識の五遍行心所法に比べて単純で粗いものです。第六・七識が思うのは法塵であり、その思惟は非常に細やかで深遠です。一方、前五識が思うのは五塵であり、その思惟は粗く単純です。五塵と法塵を混同せずに区別できれば、五識の思と第六・七識の思の違いを弁別できます。五識の思は、意識のような思惟作用とは異なり、その違いは非常に大きいものです。五塵と法塵を分けることは非常に困難であるため、五識の識別と意識の区別もまた非常に難しいことです。意根と意識の機能作用を区別することは、一般的には到底できません。

普段、人々が思惟と言う場合、一般的には第六・七識による法塵への思惟、特に独頭意識による独影境への思惟を指しており、五識もこれに関与せざるを得ません。一方、五識の五遍行心所法における思は、主に判断と択択の作用を果たします。五識が対応する五塵を了別した後、五塵から相を取り、簡略かつ粗い判断を下し、その後、了別を続けるか停止・回避するかを択択しますが、この過程で意識も同時に関与して了別しています。五識の了別が粗いと言われるのは、五塵が粗雑であり、細かい分別を必要としないため、了別が迅速で、五識が多くの心を費やす必要がなく、あたかも「頭を使わない」かのようだからです。これに対し、五塵と共にある法塵は比較的微細であり、意識による繊細な了別を必要とするため、意識の了別と思考分析は比較的遅く、より多くの心を費やします。

もし五塵が重大で影響も大きい場合、意根は五識の判断・択択を主として択択に従い、意識の分析判断を処理する余裕がなくなるため、意識の了別と思惟は無視されがちです。通常、五識の了別は比較的直観的で迅速であり、意識の了別は微細であるため五識よりやや遅れます。重大な事態においては、意根は五識の反応を主とし、意識の反応にまで気を配ることができません。そのため、突発的な事件などでは意識の分析思惟が間に合わず、意根が指揮を執って事を終わらせてしまい、意識は後で気づくことになります。まとめると、思惟とは第六・七識の思惟を指し、前五識の思は思惟に比べて単純・粗放・直接的であり、深遠さに欠け、また深く入る必要もありません。なぜなら、五塵の法は浅く粗く直観的だからです。

——生如法師の開示
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