上座が呼吸を整えた後、心の中で思惟すべき問題を呼び起こし、意識を用いて問題の内実を整理しつつ、分析や推論、推測、想像を行わず、表面的な意識の思考に頼ることなく、意根を働かせます。問題を深く意根の心に植え付け、意根にこの問題を懸けさせた時、意識と意根の心には文字と言葉と音声が存在せず、このようにして深甚な禅定が現れ、定力が生じます。意根が問題を思量する状態にあれば、色身に障害がなく、心に雑念がなければ、意根は思量を重ねるほどに集中し、禅定は深まり、智慧は開け、身心の状態は次第に調和し、精神はますます愉悦に満ちます。
このような深甚な禅定の中で法義を思量することは、完全に深甚な観行や参禅、参究に等しく、心の中の法義は次第に明瞭になります。一旦透徹して思量できれば、内心は確信に満ち、疑いがなくなり、迷惘を断じます。もしこの方法で我見を断つ内容や自性明心に関する内容を思量すれば、一旦思量参究が明らかになれば、三縛結を断じ、疑結は必ず断たれます。もし意識の推論や憶測によるものであれば、意根が明らかでないため、疑結は断たれず、業障も除かれず、生死を絶つことはできません。
大多数の人々はただ意識の表面的な思考方法しか用いず、意根による深い思量方式を用いないため、参禅や参究に工夫を凝らすことができず、情思意解に陥り、疑情が消えず、疑結が断たれません。風吹く草動くような些細な出来事に遭遇すれば、疑心が燃え盛り、以前に推論した法は覆されてしまいます。たとえ覆されなくとも、それは実証や親証ではなく、実際の役には立ちません。故に現在、悟りを得たと自認する者のうち、偽悟の比率は純金率か、あるいはそれ以上であり、決して少なくありません。これが末法時代の現状です。どれほど多くの人々が心に納得できなくとも、これが事実であり、末法時代の衆生の根器と時代背景に相応しく符合しており、正法時期や像法時期より良くなることは決してありません。
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