衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年09月11日    水曜日     第1開示 合計4251開示

修心時の傍観者・監督者は意根か意識か?

ある人が尋ねました:私の行住坐臥(日常生活)や心の動きの中で、傍観者・監督者のような存在がいて、これらすべての行為をじっと見つめています。この傍観者・監督者は意根(マナ識)でしょうか、それとも意識でしょうか?

質問者自身は確かに自分を傍観し監督しています。ある程度修行が進まなければ、自分自身を監督し傍観することは不可能です。このような覚醒と自律は、自らに煩悩や不足があると認識して初めて自らを変えようという考えが生まれ、その考えを持った後に初めて、自らの言行や心の動きを傍観し監督できるようになるのです。

一般的には、意識が自分自身を傍観し監督しています。この「自分自身」とは五蘊(色・受・想・行・識)のことです。これらの心の動きや身体的行為・言語行為はすべて意根が主体となって作り出したもので、意識もそこに参加してはいますが、主導しているのは意識ではなく、意識は受動的に参加していることが多いのです。だからこそ意識は自らの心の動きを観察し理解する必要があり、意根の心の動きを観察し理解する必要があるのです。なぜ意識が常に自らを振り返り監督できるのでしょうか?それも意根が修行を通じて覚醒を獲得したからこそ、意識に自らを振り返り監督させるのです。意根がまだ悟っていない段階では、自らの心の動きや心の行いを深く分析し理解することを非常に嫌がり、一般的には自らを隠すことの方が多いのです。

意根の煩悩が重くまだ悟っていない時は、いつも自らを欺き他者をも欺くことを好みます。自らを欺こうとしているのに、どうして意識に自らを振り返らせ監督させ、自らを理解し分析させることができましょうか?ですから、ましてや他者に理解され分析されることを望むはずがありません。このように悟っていない人は非常に短所を隠す(護短)傾向があり、短所を隠す人は自画自賛(自赞自夸)を好みます。他者が自分を褒めてくれなければ、自ら褒め称え、自らを持ち上げることで自己慰安と満足を得ようとします。このような人の心は脆いものであるがゆえに、自他からの肯定を必要とし、そうして初めて安心感を覚えるのです。一個人に短所を隠す行為がある限り、他者の忠告や助言に耳を貸そうとはしません。このような時に議論したり忠告したりしても効果はあまり期待できません。自らを正しく認識し変えようとする意思のある人に対してこそ、忠告は意義と効果を持ち、人に嫌われることなく、ましてや衝突を引き起こすこともないのです。

——生如法師の開示
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