ここに、速やかに禅定に入りながら参究と観行を同時に行える方法をご紹介いたします。これにより参究の境地に素早く入ることが可能となります。
我見を断つには、五蘊の中の「我」が重要で、この「我」が果たして何であるかを思量すべきです。坐禅中に思量する場合、結跏趺坐した後、呼吸を整えます。通常、数回深呼吸を行い、身前の任脈を通暢にし、頭脳を明晰に保ちます。次に「我」という一念を提起し、初めは意識心の中に「我」という文字とその意味が現れます。その後、意識がこの「我」への疑情を意根に伝達し、意根に委ねたら、意識の心念は次第に消滅していき、心が空になったように感じ、想念が無くなる状態となります。
しかし心は真に空ではなく、意根が「我」への疑問を懸けており、その感覚は深遠で有無の境にあり、捉えられるようで捉えきれません。この時、意識は想念を起こさず、意根の中の「我」への疑情を次第に明晰かつ深遠なものとし、心に刻まれたように確固たるものとします。こうして禅定が生起し、一心不乱に「我」を参究する状態となります。この時、意識は消失したかの如くになりますが、意根はそうではなく、意根の思量作用は把握し難く感知し難いものの、定力が増し、心が微細になれば意根の深甚な思量を感知でき、それは綿々と続き極めて微細なものとなります。
この時、心は至極静寂となり、「我」への疑い以外何もない状態となります。これは甚深なる禅定であると同時に、一心不乱の参究と観行の修行であり、定慧等持の偏りなき境地です。禅定が深まるにつれ、身体は非常に快適に、頭脳は極めて明晰となります。この状態で昏沈を感じたり無念の定に入りそうになった際は、意識が再び意根を喚起し「我」の一字を提起し、注意力を全て「我」に集中させ、心を空虚や混乱から守ります。一時間は瞬く間に過ぎ、坐を解く時には神気爽快、精力充実、精神愉悦を覚えます。意根の思量による結果は明確な場合も曖昧な場合もありますが、以前より明らかに信心が増し、理解が深まっています。
明確な解答や結果が現れず、定慧等持の三昧が生起せず我見が断たれない限り、満足のいく結果を得るまでこの修行を継続します。この方法に基づき、次々と未明の法義を思量します。色蘊を思量し、受蘊を思量し、想蘊を思量し、行蘊を思量し、六根・六塵・六識を思量します。あらゆる法義をこのように思量することで、根本的に疑惑を断じ、三縛結を断除することができます。
初期の坐禅時、意根は経験がなく思量者の役割に入れません。役割に入った後も何を思量すべきか分からないため、意識が意根を導き特定の方向へ思量させます。ただし過度に指示せず、毎回ほんの少し曖昧に示すだけで十分です。意根が専心して思量し始めれば、次第に明らかになり透徹して参ります。出定後、意識は整理総括を行い、意根が思量した全ての法義を再考し、印象を深め確証を得ます。
坐禅中だけでなく、歩行や日常動作においても同様に修行します。ただしより困難で注意力が分散し、同等の効果を得るにはより長い時間を要しますが、方法は同じです。意根の疑情が深まれば、行住坐臥全てが専心修行の場となります。なぜそうなるのか、その中にどのような奥義があるのかを理解し、法の来龍去脈を探究し尽くせば、悟りを証得することとなります。
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