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煩悩无尽誓願断
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日常法話

2024年09月10日    火曜日     第1開示 合計4250開示

いかに速やかに入定し、法義を参究するか

ただいまより、速やかに禅定に入りながら同時に参究と観行を行う方法をご紹介いたします。これにより、皆様が速やかに参究の境地に入られるようお手伝いいたします。

我見を断つには、五蘊の中の「我」が重要でございます。この「我」が一体何であるかを思量いたします。坐禅中に思量する場合、座に着いて結跏趺坐した後、呼吸を整えます(通常は数回深呼吸いたします)。これにより身前の任脈が滞りなく通り、頭脳は明晰で昏沈することはありません。その後、「我」という一字だけを提起いたします。初めは意識心の中で「我」という文字とその意味が現れます。次に、意識がこの「我」に対する疑情を末那識(意根)に伝えます。末那識に委ねた後、意識の心念は次第に消えていき、心が空になったように感じ、何の念もなくなります。

しかし心は実際には空ではなく、末那識がこの「我」の疑問を懸けております。それは深く感じられ、有るようで無いようであり、掴めそうで掴めない状態でございます。この時、意識は念を動かさず、末那識の中にある「我」への疑情をますます明確に、深くしていきます。それはまるで心に刻まれたかのように固着いたします。こうして禅定が生じ、一心不乱に「我」を参究いたします。この時、意識は呆けたように消え去ったかのようですが、末那識はそうではありません。末那識の思量作用は容易に捉えられず、感じ取ることも難しいのですが、定力は増強されております。心が細やかな時には、末那識の深い思量、綿々と絶え間なく続く極めて微細な状態を感じ取ることができます。

この時、心は極めて静かであるべきで、その「我」への疑い以外には、心には何も無い状態でございます。これは甚深な禅定であると同時に、一心不乱の参究と観行の修行であり、定(サマーディ)と慧(プラジュニャー)が等しく保たれ、偏りのない状態でございます。禅定が深いため、身体は非常に快適に感じられ、頭脳は極めて明晰でございます。この状態の中で、もし昏沈を感じたり、無念の定に入ろうとしたりする場合は、意識は再び末那識に注意を促し、「我」という一字を提起させ、注意を全て「我」の一点に集中させ、心を空っぽにも乱れもさせないようにいたします。こうしていると一時間はあっという間に過ぎ去り、座を立つ時には神気爽快、精力が漲り、精神は愉悅に満ちております。末那識が思量して得た結果は、明確な場合もあれば、そうでない場合もございますが、心には確信が生まれ、以前に比べてはるかに明瞭になっております。

明確な答えや結果が現れず、定慧等持の三昧が現れず、我見が断たれていない限り、今後も満足のいく結果が得られるまで、このように修行を続けてまいります。この方法に基づき、次に他の不明瞭な法義を順に思量してまいります。例えば色蘊を思量し、受蘊を思量し、想蘊を思量し、行蘊を思量し、六根・六塵・六識を思量いたします。いかなる法義もこのように思量することにより、根本から疑惑を断ち、三縛結を断除することが可能でございます。

初めて座につく時、末那識は経験がなく、思量者の役割に入ることができません。役割に入った後も、何を思量すべきか分かりません。これには意識が末那識を導き、どの方向へ思量を向けるべきかを促す必要がございます。ただし促しすぎてはならず、毎回ほんの少しだけ、漠然と促すだけで十分でございます。末那識がひとたび専心して思量できるようになれば、次第に明らかになり、ますます透徹してまいります。禅定から出た後、意識は整理・帰納を行い、末那識が思量して得た法義の全てを再び思惟いたします。これにより印象が深まり、確信を得ることができます。

坐禅中にこのように修行するのと同様に、歩行時や日常の行動の中でもこのように修行いたします。ただし、そちらはより困難で、注意力が分散しやすく、同じ効果を得るのにより長い時間を要しますが、方法は同じでございます。末那識の疑情が深い時には、歩くこと、座ること、臥すこと、あらゆる動作の中で専心して修行することが可能でございます。なぜそうなるのか、その中にどのような奥秘があるのかを、その所以を知るに至り、法の来龍去脈を探究し明らかにすれば、悟りを証することになるのでございます。

——生如法師の開示
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観行においても貪瞋痴の根源を内観すべきである

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