衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年09月08日    日曜日     第2 回の開示 合計4249回の開示

観行においても貪瞋痴の根源を内観すべきである

君若蘭の観行:この数日不公平な出来事に遭遇し、観行を始めた。公平が得られず、瞋心が生じたのは法執(規則への執着)である。なぜ規則に執着するのか?それは自己の利益を損なわないため、つまり貪りを満たすためだ。色受想行識は皆空なるもの、何を貪る必要があろうか?
観行時、最初は意識の参与が多かったが、最後の文に至ると意識的思考が停止し、ただ単純な覚知のみが存在した。この時「私」というイメージを見た──身体が軽く漂う半透明の存在。やがてその半透明のイメージも消え、ただ軽やかな感覚だけが終了まで続いた。観行後、再びこの事を考えてみると、内心が非常に平静であったことに気付いた。現実で感情を揺さぶる出来事がある度に時間を割いて観行する。観行を重ねるほど、自らの意根の問題が実に多く、我執が深く重いことが分かる。
講評:君若蘭の観行は非常に適切であり、智慧が優れていることを示す。慧が強いが、禅定が慧と同じくらい強いかは分からない。やや弱いように感じる。しかしこの速度でいけば、禅定は急速に強化され、三昧が現れる時が来れば修行は大きな転機を迎える。見道を期してしっかり把握すべきだ。
各人の貪瞋痴には源起、つまり根源がある。この根源とは何か?それは「私」である。我見があるため、自我を維持し満足させるために自動的に貪瞋痴が生じる。故に貪瞋痴の現象は客観的に心中の我見と我執を反映する。初果や二果の者は既に我見を断じたが、完全には断じておらず、貪瞋痴の煩悩は降伏したものの根絶されていない。初禅定を経て三果に至り、初めて貪瞋の煩悩を根絶するが、痴の煩悩は未だ残る。この痴とは三界内の法に対する痴であって、大乗法に対する痴ではない。
貪瞋痴の煩悩を降伏・断除するには、有効な観行の後、特に三昧が生起した後で効果が顕著に現れる。意識で無理に煩悩を抑圧せずとも、煩悩は自然に生じない。観行過程で意根が五蘊身心の虚偽不実を明らかにすれば、思想観念が変化し、色身を重要視しなくなる。欲界の粗重な貪りは自然に現れず、衣食住などの六塵境界にも次第に無心となり、選り好みせず気に留めず追求せず、瞋心も自然に降伏する。全てに対し「どうでもいい」と感じ、この一言で多くの葛藤が解消される。
修行とは理論で実際を指導することである。実際とは五蘊の現在における各環節、各身口意の行いである。修めるのは身心の身口意の行い、これが最終的な着地点であり目標である。各人の修行効果を観るには、その身口意の行いを観、五蘊活動中の各細部を観る。細部が成否を決め、効果を決定する。なぜ五蘊の細部と身口意の行いを観察するのか?思想観念が身口意の行いを決定し、五蘊活動の細部を決定するからだ。理論が適切に実践されれば観念は転換する。理論が実践されなければ、それは単なる理論に過ぎず、語る価値もない。

——生如法師の開示
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