衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年09月08日    日曜日     第1 回の開示 合計4248回の開示

禅定において意根の思量を如何に働かせるか

禅定において意識の思惟を用いず、意根の思量を用いるこの功夫は非常に深く、一般的な人々には達成が困難であり、深い禅定の基礎と一定の観行功夫が必要です。禅定と観行がある程度まで修行されると、意識の思惟を意根の思量へと転換できるようになります。意識の思惟は比較的浅く表面に浮かんでおり、通常の人間でも観察可能です。例えば、今この瞬間の心にどのような念があるかを反観すれば、自らが何を考え、思考し、計画しているかを知ることができます。これらの念は一般的に表面に浮かび、全て意識の思惟によるものです。

同時に背後には意根の支持と主導作用が存在しますが、定力と智慧が不足している場合、これを観察し自らの真の心の動きを認識することは容易ではありません。心を極めて微細な状態に修めると、意識が思惟する際に背後で主導的な力を発揮する存在を観察できるようになります。その力と思考の流れこそが意根のものです。意識の背後にある意根の力を発見し、意根を捉えられる段階に至ったら、徐々に意識の思惟作用を薄め、一定の程度に達した後は意識の念を捨て去ります。捨て去った後も心に念を保持し、意根の思考活動を維持し、完全な無念無想の状態に陥らないようにする必要があります。これは非常に困難な修行です。

禅定においては心の深層にある力を発見する努力が必要です。それは実際に念を有し、思考活動を行い、思考可能な存在、つまり意根の思量活動です。これを発見した後はその思量活動を保持し消滅させず、意識が思惟する法義を意根に委ね、継続的に独自に思量させます。これは比較的深い参究の状態であり、参禅とはまさにこのような功夫です。五蘊無我を思量する際にも同様の功夫が用いられます。これにより意根の思量が活性化され、この思考様式、このような功夫を「意根の思量」と呼びます。

これを達成するには甚深なる禅定が不可欠であり、優れた禅定功夫によって粗い妄念を捨て、最終的には微細な妄念までも捨て去る必要があります。妄念とは無関係な法を思惟する念、つまり雑念や多念を指し、これらは正念にとって妨げとなるため全て除去します。残るのは意識が思惟すべき法のみとなり、その後意識の思惟も除去し、意根にその法を思量させます。意識と意根が問題思考を交替する状態です。この段階では意識は依然として存在し、軽微な了別作用を担いますが、深い思惟・分析・推論を行わず、意根が深く思量するに任せます。言語・文字・音声を伴わないこの思量作用は、禅定と智慧が不足している状態では観察が困難です。

意根のこの思量機能は「心の深層の考え」とも称されます。各人の心の考えは二種に分かれます:表面に浮かぶ浅層の意識の考えと、深層に潜む真の考えである意根の考えです。例えば他者に語る打算は往々にして表面のものであり、心の奥底には別の声と意図が存在します。その意図は秘匿され、意識の言語で覆い隠されるか、注意を逸らすために用いられます。

不断に自らの意根を反観し、意根を把握した後、本来意識が執着し思考していた法を意根に移行させます。これにより意根が常時その法を念じるようになり、意根の思量性が顕現します。意根が受容すれば薫染は成功し、受容しなければ不成功です。功夫が十分に至って初めて成功します。

日常生活において我々は常に意根とその思量作用を用いていますが、観察できず区別もつかず、総括もできないため、意識の思惟か意根の思量かを判別できません。これらを明確にするには禅定功夫と観行智慧を増進する必要があります。禅定が深まって初めて心が微細になり、意識と意根の区別がつき、心の声と表面の声を識別できるようになり、意根の思量状態を理解し、その思量性を把握して次第に運用できるようになります。

この境地に達するには禅定修行を強化し、智慧の弁別力を高め、煩悩を調伏し、妄念を減少させ、心を仏法に縁らせ世俗法に攀縁させないことが必要です。禅定が深まるにつれ心は集中力を増し、妄念は減少して遂には捨て去れるようになります。心が微細化し智慧が深まるにつれ、意根の機能は十分に発揮されるようになります。

色身が調伏され定慧等持の境地に至ると、直接意根の思量によって問題を解決できるようになります。ある法に対する疑情が強い時、直接その法を心に懸け、初めは意識で懸けた後、意識の作用を軽減させ意根に法を懸けさせます。これにより比較的深い禅定に入り、意根が深く法を思量します。意根が専注すればするほど禅定は深まり、禅定が深まれば意根の思量もより専注的で微細になり、遂には問題を明らかにすると共に三昧の境地に入り、法喜に満たされ、身心が軽安となり禅悦が現れます。三昧とは定慧等持の境地であり、この境地が現れると一日中精神状態が極めて良く、身心共に軽安となります。

——生如法師の開示
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