禅定において意識の思惟を用いず、意根の思量を用いるこの修行は非常に深遠であり、一般の人々が達成するのは困難です。深い禅定の基盤と一定の観行の修練が必要です。禅定と観行がある程度まで進むと、意識の思惟から意根の思量へと転換できるようになります。意識の思惟は比較的浅く表面に浮かんでおり、通常の観察でも把握可能です。例えば「今この瞬間、心にどのような念があるか」と内省すれば、自分が何を考え、思索し、企図しているかが分かります。これらの念は概ね表面に現れ、意識の思惟によるものです。
同時に、背後では意根の支持と主導作用が働いていますが、定力と智慧が不足していると観察し難く、自らの真意を見極められません。心を極めて微細な状態に修めると、意識の思惟の背後に主導作用を及ぼす力が存在することに気付きます。その力と思考の流れこそが意根の働きです。意識の背後にある意根の力を発見し、意根を捉え得る段階に至ったら、徐々に意識の思惟作用を薄れさせ、一定の水準に達した後で意識の念を捨て去ります。捨てた後も心に念を保持し、意根の思考活動を維持し、完全な無念無想に陥らないようにします。これは容易なことではありません。
禅定においては、心の深層に存在する力を発見するよう努めなければなりません。それは実際に念を有し、思考活動を行い、思索可能なもので、まさに意根の思量作用です。発見後はその思量活動を保持し、消滅させず、意識が思惟した法義を意根に委ね、継続的に独自に思量させます。これは比較的深遠な参究の状態に属し、参禅の本質です。五蘊無我を思量する際にもこのような修練を用います。こうして意根の思量を活性化させる思考様式、このような修練を「意根の思量」と呼びます。
これを達成するには深遠な禅定が不可欠です。禅定の修練が十分に進み、粗大な妄念を捨て去り、やがては微細な妄念までも捨て去れる必要があります。妄念とは他愛ない法に関する思惟、つまり雑念や多念を指し、正念に対する妨げとなるため全て除去します。残った一つの法に対する意識の思惟も最終的に捨て、意根にその法を思量させ、意識と意根の思考を交替させます。この段階では意識は依然として存在し、軽微な了別作用を担いますが、深い思惟・分析・推論を行わず、意根に深遠な思量を委ねます。言語・文字・音声を伴わないこの思量作用は、禅定と智慧が不足している段階では観察し難いものです。
意根のこの思量機能は「心の深層の考え」とも称されます。各人の心の考えは二種に分かれます:表面に浮かぶ浅層の意識の考えと、深層に潜む真意を表す意根の考えです。例えば他者に「これをしよう」と述べても実際にはその考えがなく、発言は形式的なもので、心の奥底に別の声と意図が存在する場合があります。その考えは秘匿され、意識の言語で隠蔽されるか、注意を逸らす手段となります。
絶えず自らの意根を内観し、意根を把握した後、本来意識が執着し思索していた法を意根に転移させ、意根に執着させます。これにより意根が常時その法を念じるようになり、意根の思量性が顕現します。意根が受容すれば熏習が成功し、受容しなければ成功しません。修練が十分に成熟して初めて成就します。
日常生活において我々は皆、意根とその思量作用を用いていますが、観察できず、弁別できず、総括も行わないため、意識の思惟か意根の思量かを判別できません。これには禅定の修練と観行の智慧を増進し、これらの問題を解明する必要があります。禅定が深化して初めて心が微細になり、意識と意根の差異を発見し、心の声と表面の声を弁別できるようになり、意根の思量状態を理解し、その思量性を把握して次第に運用できるようになります。
この境地に至るには禅定修行を強化し、智慧の弁別力を高め、煩悩を調伏し、妄念を減少させ、心を仏法に縁起させ世俗法に攀縁させないようにします。禅定が深化するにつれ心は集中を増し、妄念は減少して遂には捨て去れるようになります。心が微細化し智慧が深まるにつれ、意根の機能作用は良好に発揮されます。
色身が調伏され定慧等持の境地に達すると、直接意根の思量を用いて問題を解決できます。ある法に対する疑情が強烈な時、直接その法を心中に懸け、初めは意識で懸けた後、意識の作用を軽減・希薄化させ、意根にその法を懸けさせます。この時点で比較的深い禅定に入り、意根に深くその法を思量させます。意根が集中して思量すればするほど禅定は深まり、禅定が深まるほど意根の思量は集中・深化・精緻化し、遂に問題を解明すると同時に三昧の境地に入り、法喜に満ち、身心が軽安となり禅悦が現れます。三昧とは定慧等持の境地であり、この境地が現れると一日中精神状態が極めて良好で、身心共に軽安となります。
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