衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年09月06日    金曜日     第1 回の開示 合計4247回の開示

真に疑情を生起するにはどうすればよいのか?

願如(惟如)の大乗疑情:今や私は日常の歩行坐臥すべてが定中にあり、心に染みついた法義を観じ、主に脳裏に浮かぶ白骨観と自らの白骨を観じている。心外の人や事柄には興味がなく、分別しようともしない。ある時娘が私をスーパーにスナック菓子を買いに連れ出したが、店に至る道中ずっと内観を続け、他人の話し声もはっきり聞こえず、周囲の人や物を見る興味もなかった。娘が品物を選ぶよう促すと、体が夢遊びのように現実感がなく、手足や目が思うように動かず、品選びもろくにできず放心状態だった。

ある時突然脳裏に「機関木人、機発相起」という言葉が浮かんだ。すぐには理解できず心で反芻していたが、師匠の著作で見覚えのある文句だと気付いた。以前は意味が分からなかったが、今この言葉が突然現れ、その真意を思索した。鉄人や木人、糸で操る影絵人形をもって、五蘊の活動を比喩しているのだろうか。衆生のこの五蘊の色殻が躍動するのは、如来蔵自性が背後で発揮する妙用に他ならない。一切法に如来蔵の機能妙用が顕現し、全ての公案や参話頭は衆生の如来蔵自性の妙用を説く。故に定中では全てが夢幻の如く現実感がなく、何も感じない。夜中に眠っていても、脳裏で誦する呪文に目覚めることがある。

昨年白骨観を修行していた時、身心に変化を覚えた。以前は親しい家族も、外見の美しい人も、皆同じく血肉の汚物の如く見えた。用便時も人々をそのように観じ、身体の九穴から常に穢物が排出されるのを観想し、人体の不実さを感じ、虚しさを覚えて美食や華美な衣服への執着が消えた。最近は昼夜を問わず、覚醒時も睡眠中も常に定中にあり、法義が脳裏に絶えず流れている。

評釈:白骨観は我見を断つに足る。常に白骨が脳裏に浮かぶなら、それは常に三昧中にあり、自ずと白骨が現前することを意味する。我見を断つのは瞬時のことで、既に断じているのに自覚なき場合もある。判別智がなく心境を語れないためだ。願如は現在の状態を明確に認識し、心念と感受を理解すべきである。我見を断じた瞬間には身心に相応の境界が現れるが、これを凡夫事と見做せば機会を逸する。

外界への無関心は禅定の功徳のみならず智慧の現れである。五蘊の観行が熟達し、心が空に随順して初めて現れるか、我見を断じた後に常時現れる状態だ。修行が未熟ならこの境地には至れない。故にこの状態は九割方我見を断じた証左と言えよう。

「機関木人、機発相起」の突然の想起は、三昧中に意根が発した大乗疑情である。大乗参禅の因縁が熟し、自ずと疑情が生じたことは大乗智の顕現を示す。意根が大乗疑情を生じるのは、小乗の基礎が固く五蘊無我を確信していること、大乗法の薫修が熟したことによる。我見が残存する限り意根は大乗疑情を起こさない。

真の疑情は三昧中に自発的に生じ、意根が五蘊の空を了知した後にその機微を究明しようとする大乗修行の自然な現れである。この方式で参究すれば速やかに悟りを得、空費することはない。この三昧状態において明心見性は目前と言えよう。

三昧中の一切が夢幻の如く不実に観える状態は、我見を断じた後の境界に似る。行住坐臥すべてが禅定中で観行が途切れず、外境に引きずられない堅固な定力は、大小乗を問わず入道の直前期を示す。この境地にあれば、今生での悟達はほぼ確定している。

最後の白骨観修行の記述は、願如の修行が衆生の不浄を常観し、五蘊の空性を体得し、貪欲を離れ、醒睡を通じた不断の三昧を達成したことを示す。これらは我見断後の覚明境界の特徴である。禅定に间断なき状態は我見断後のみ可能で、九割方我見を断じたと判断される。

肝要は:この三昧中の智慧認知以外に真の見道は存在しない。禅定以外の意識的推量は見道に非ず。浅い禅定では真の見道は不可能で、意識の妄分別に過ぎない。

——生如法師の開示
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