衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年09月05日    木曜日     第1 回の開示 合計4246回の開示

意根が恒に審らかに思量する「恒」の意味

意根もまた生滅する法であるならば、その恒審思量における「恒」をどう理解すべきか。恒には二つの意味がある。一つは不生不滅で永遠に存続し滅びないこと、もう一つは非常に長い時間にわたり変化せず、常にその状態を保ち続けることである。前者は第八識の恒を指し、絶対的で比類なく不生不滅である。後者は意根の恒を指し、相対的なもので、意根が滅びない状態において永遠に思量を保持し続けることを意味する。

意根の恒は成仏後も滅びることはないため、意根が存在する限りその思量性は存続する。しかし意根を滅ぼさないことと、意根が滅びえないことは同義ではない。阿羅漢や辟支仏は意根を滅尽させて無余涅槃に入ることが可能であり、七地以上の菩薩や諸仏も意根を滅尽させ得るが、敢えて滅ぼさないのである。意根は第八識が識の種子を送り出すことによって生じ、第八識によって初めて発生し運行する。これは不生不滅の本来の法ではなく、一旦意根が三界の世俗法を執取しなくなれば、第八識は意根への識種子の供給を停止し、意根は滅する。故に意根の恒審思量における「恒」は六識に対する相対的なものであり、第八識の恒とは比べるべくもない。

——生如法師の開示
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