意根もまた生滅する法であるならば、その「恒に審らかに思量する」における「恒」をどのように理解すべきか。「恒」には二つの意味がある。一つは不生不滅で永遠に存続し滅びないこと。もう一つは時間的に非常に長く久遠であり、相当な長期間にわたって一貫して変化せず、ずっとその状態を保つことである。前者は第八識の「恒」であり、絶対的で比べるもののない、不生不滅のものである。後者は意根の「恒」であり、これは相対的なもので、意根が滅びない状態において永遠に思量の作用を変えずに保つことを指す。
意根の「恒」は成仏した後も滅びることはないため、意根がある限り意根の思量性は存在し続ける。しかし、意根を滅ぼさないことは、意根が滅びえないことを意味しない。阿羅漢や辟支仏(びゃくしぶつ)は意根を滅尽して無余涅槃に入ることができ、七地以上の菩薩および諸仏も意根を滅尽することが可能であるが、敢えて滅ぼさないのである。意根は第八識が識の種子を送り出すことによって生じるものであり、第八識によって初めて生じ運行する。不生不滅の本来の法ではなく、一旦意根が三界の世俗法を執取しなくなると、第八識は意根の識の種子を送り出さなくなり、意根は滅びる。したがって、意根の「恒に審らかに思量する」という「恒」は、六識に対して相対的に言われるものであり、第八識の「恒」とは比べものにならない。
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