一人の人間に二重人格が存在する場合、それは意識と意根がそれぞれ別個の人格を持っているのか、それとも意根自体が二つの人格を有しているのか。第一の人格が現れるとき、身・口・意の行為はある様相を示し、第二の人格が現れるとき、身・口・意の行為は全く異なる様相を示す。二つの人格は異なり、あるいは正反対であり、あたかも別人のようである。
なぜ多重人格の現象が生じるのか。それは意根が複数の心理的欲求と意志を持ち、それらを同時に満たしきれないため、異なる意志を満たす、あるいは複数の性格を表現するために多重人格が現れるのである。つまり、自己が自己の意志を満たせなくなり、複数の性格が調和して共存できず、多様な経験が重なり融合できなくなった結果、やむなく各意志と自我を満たすために多重人格が形成されるのである。意根が過度に葛藤し、矛盾を解消できないため、強いて自らを二分し、一が多となるのである。
この多重人格の現象から、諸仏菩薩の応身(報身)と化身を事前に体得することができる。応身は意根によって現れる身であり、化身は分身であり、意根の意志によって化現した六識の分身である。二重人格におけるそれぞれの身・口・意の行為の差異は、複数の分身たる六識の造作(行為)が異なることに相当する。諸仏菩薩の化身はその立場(身分)が異なり、造作もまた異なる。観世音菩薩の願力は「衆生応以何身得度者、即現何身而為説法」(衆生がどの身によって救われるべきか、その身を現じて説法する)である。ここでいう「何身」とは無数の化身を指し、意根による衆生救済の意志によって化現されたものである。一人の菩薩が二つ以上の化身を現じて世に来たるとき、各色身(物理的身体)は互いの存在を知らないこともあり得る。
諸仏菩薩の願力は広大にして深遠であるため、一つの色身ではこれほど多く、大きく、深い願力を実現できず、無数の分身を化現して多くの願力を成就せざるを得ない。意根は主導識(作主識)であり、福徳・禅定・身体・願力が十分であれば、主導して分身を作り、数多くの六識身を変現する。一組の六識身は一組の身・口・意の行為を持ち、数多くの六識身は数多くの身・口・意の行為を持つ。それらの身・口・意の行為はそれぞれ異なるが、すべて同一の意根と如来蔵に帰属する。一方、多重人格における人格は、同一の意根の異なる側面、異なる性格、異なる意志、あるいは異なる願いに帰属する。
皆さんが唯識を学び終えたなら、心理カウンセラー、心理学者、あるいは心理指導者となり、心理研究と導引に従事できるはずである。他人の心理は一見して理解でき、誰もあなた方を欺くことはできず、誰も騙すことはできず、他人の心理を掌握して人を善く導くことができる。世間の人々は貪・瞋・痴(三毒)に他ならず、すべて五蘊の我に執着し、現象界を見透せないため、当然ながら心理的問題を解決できない。よく思惟し観行すれば、様々な法義が貫通し、未来の方向性が明瞭に見えるようになり、仏法修証の前途に対して楽観的になり、将来が明るく感じられるであろう。
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