衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年08月22日    木曜日     第1 回の開示 合計4239回の開示

意識が知らない意根触の法

意根は如来蔵と結び付いており、如来蔵がどの法を現じるかによって、意根はその法に触れ、その法を見ます。しかし意根の了別には重点と段階があり、重視する法を自ら了別しきれない場合、作意と選択が生じ、六識が現れて了別を行います。意根自らが了別し得る法であっても処理できない場合は、作意と選択によって六識を現出させ、了別と処理を行わせます。

意根自らが了別し得る処理不要の法は極めて多く、意識はこれを知りません。また意根が触れる法のうち六識による了別を必要としないものも極めて多く、意識はこれも知りません。意根が触れ且つ了別した法も極めて多く、意識に知らせ処理させたいものも多いのですが、意識は智慧不足のため理解できず、曖昧模糊としたまま、むしろ意根の示唆を不可解に感じ、結局は未解決のまま終わります。

如来蔵が六塵の境界を現じる際、六塵が最初に現れる時、意根が先に触れ先に了別します。意根が六塵を了別しきれないと、六識が現れて詳細に了別します。六識が了別を始めた当初、六塵に対比すべきものがないため、これまた了別が不十分で、意識は漠然とした感覚を抱きます。数刹那の了別を経て前後の六塵に対比可能な要素が生じ、塵境が連続性を持つに至って、初めて意識は六塵の実態を知るのです。例えば文字を書く際、第一画を書いても他人は何の字か分からず、第二画を書いても分からず、第三画でおぼろげに推測でき、第四画を以て初めて何の字か判明するようなものです。

——生如法師の開示
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