衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年08月18日    日曜日     第1開示 合計4237開示

意識と意根の好みの違い

心に何かを好む気持ちは、おおよそ二つの層、あるいは二つの程度に分けられます。表面的なのは意識の好みであり、深いのは意根の好みです。主体となれないのは意識の好みであり、好きならば手段を選ばず手に入れようと行動を起こすのは意根の好みです。中毒や夢中になること、念念不忘(頭から離れないこと)はすべて意根の好みです。たとえば、ある家庭では家長が決定権を持ち、何かを好む場合、子供の好みもあれば家長の好みもあります。しかし子供は何を好んでも決定権がなく、必ず家長の同意を得て初めて好みのものを手に入れる方法があり、一方で家長は好むものは手段を講じて手に入れます。子供は意識に相当し、家長は意根に相当します。

もし意識の好みが意根に影響を与え、意根もそれを好む、あるいは意識の好みに同意すれば、意根は好みのものを得ることを決定し、取りに行きます。意識の好みは一つには意根の影響を受け、もう一つには環境である六塵の境界の影響を受けます。意根の好みは一つには無始劫(無限の過去世)からの煩悩習気に由来し、もう一つには意識による熏習(薫陶)に由来します。もし意識の好みが意根に影響を与えなければ、意根はこれを無視し、意識は空しく好むだけで、得ることはできません。たとえば仏法を学ぶことを好むのは、まず意識が好み、その後意根が好むという場合です。もし意識が仏法を学ぶことを好んでも、意根が好まなければ、精進することはありません。もし意根も仏法を学ぶことを好めば、孜孜として求め、精進して修学します。長く持続して放棄しないのはすべて意根の好みによるものであり、断続的なのは意根があまり興味を持っておらず、意識に牽引され制御されている状態で、制御できなくなると意根は逃げてしまいます。

——生如法師の開示
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