世間法に対する厭離には、表面的な意識の厭離と深層の意根の厭離があります。表面的な厭離は、ただ意識が世間を退屈で無意味に感じるだけで、口先だけのものであり、言うことと行うことは別で、本気になることはありません。どれほど貪るべきかは依然として貪り、何も変わりません。これは偽りの厭離です。しかし、心に真の厭離心が生じたときは、直接行動に現れ、もはや世間の利益を得るために多くの方法を考えず、できるだけ世間の人々や事柄を避け、事を増やすよりは減らすことを選び、世間に未練を持たなくなります。これは深層の意根から生じた厭離心であり、解脱につながる心です。この境地に達するのは容易ではなく、多生にわたって積み重ねた善根の修行によるもので、浅学の者には決してこのような心の動きはありません。
深層の意根の厭離にどうすれば達せられるでしょうか。まず禅定を修める必要があります。禅定の中で五蘊(ごうん)が苦・空・無常・無我であることを観じます。無常・苦・空・無我を初歩的に悟った後も、まだ世間に対して厭離心を生じることはできません。引き続き観行を深め、初禅定を発起した後、貪愛の煩悩を断じて初めて、世間に対して厭離心が生じ、もはや世間で生死を流浪し時を無駄にすることなく、解脱の心、出離の心を持つようになります。したがって、出離心や厭離心はすべて深層の禅定と智慧から離れることはできません。禅定を修めなければ、口先だけの厭離であり、実際には非常に貪愛が強く、まったく厭離せず、口と心が一致しない状態です。
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