問:いわゆる記憶とは、意根の参与のもとで前六識が経験した内容を保存し、後に必要が生じた際に意識が主導して回想するものです。一方、理解とは意識の智慧に導かれ、意根に思考を引き起こし、それによって意根が事物の内的関連性と道理を把握することです。従って関連する問題に遭遇した時、改めて回想する必要がなく、意根が直接解答と処理を与えます。故に意根に智慧があれば問題処理は簡潔迅速ですが、意根に智慧がなければ記憶を検索しなければならず、処理に時間がかかり非効率となります。以上の理解は正しいでしょうか。
答:以上のご理解はおおむね正しいです。回想は意識が行いますが、主導権と決定権は意根にあります。理解は意識を主体とする解釈ですが、多かれ少なかれ意根の解釈も関与します。意根に智慧がない場合、意識による回想を経て、比較・対照・衡量した上で、正誤いずれかの決定を下します。智慧が浅ければ浅いほど、比較衡量に時間を要し、優柔不断となり自信を失います。あれこれ意識で思考・分析・比量せず、素早く決断を下すのは意根の直接的な選択であり、或いは智慧あるいは非智慧の現れです。表情を変えず、心を動かさず、反復思考することなく、黙々と自動的に事を処理するのは、全て意根の智慧によるものです。処世に長けた人々の意根には智慧が備わり、豊富な経験によって物事を円融無碍に処理し、他人に付け入る隙を与えません。
意根に智慧を持たない学生は、概して意識による丸暗記に依存し、自由な発揮ができず、非知識的問題に直面すると為す術がありません。一方、意根に智慧ある学生は決して記憶に頼らず、問題を理解した上で自由に発揮します。従って学校の試験で高得点を取る学生が必ずしも真に智慧ある学生とは限らず、試験問題が知識型か発揮型か、知識を問うか智慧を試すかによります。仏法も同様で、大層な理論を滔滔と語る人が必ずしも実証的智慧を持つとは限りません。もし多くの経典を読み、博学で強記し、学んだ法を意識的に整理・帰納・総括・分析できれば、理論体系を構築できますが、これは即ち実証的智慧を意味せず、知識の蓄積である可能性もあります。
知識の蓄積は煩悩を断じ切れず、ただ意識が聡明であることを示すに過ぎません。意識の聡明な人に法を学べば多くの理論知識を得られますが、実証は困難です。実証ある人に学べば実証し易いですが、知識は必ずしも豊富ではなく、実証後に智慧が成長すれば、次第に知識領域を拡大し必要な理論知識を補完できます。
意根に智慧があれば智慧は深く、煩悩なく、格局が大きく、心が広く、気魄と胆識を備え、長期的視野を持ち、大義名分を正確に把握し、過ちを犯しません。一方、意識の聡明さには深遠な大智慧がなく、心量が十分広くないため、聡明さ故に却って過ちを犯す可能性があります。人が先天的に持つ智慧は全て意根が持ち込んだもので、意根の智慧です。後天的な智慧は新たに学んだもので、意識の智慧であり、或いは意根の智慧でもあり得ます。
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