衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年08月12日    月曜日     第1 回の開示 合計4234回の開示

意根と意識・慧の区別

問:記憶とは、末那識の参与の下に前六識が経験した内容を保存し、必要時に意識が主導して回想することを指します。理解とは意識の智慧に導かれ、末那識に思考を引き起こし、物事の内在的関連性と道理を悟らせることです。従って関連問題に遭遇した際、回想を必要とせず末那識が直接解答と処理を与えます。故に末那識に智慧があれば処理は簡潔迅速ですが、智慧がなければ記憶を検索する必要があり、非効率的です。以上の理解は正しいでしょうか。

答:概ね正しい理解です。回想は意識が行いますが、主導決定は末那識にあります。理解は意識を主とする解釈ですが、多かれ少なかれ末那識の解釈も関与します。末那識に智慧がない場合、意識の回想を経て比較検討し、正誤を判断します。智慧が浅いほど判断に時間を要し、決断力に欠けます。即断即決で意識の思惟分析を経ない選択は、末那識の直接的な判断であり、智慧あるいは無知の現れです。無駄な思慮を巡らせず自然に事を処理できるのは、全て末那識の智慧です。老練な人は末那識に智慧があり、円融無礙に事を処理します。

末那識に智慧のない学生は暗記に頼り、知識外の問題に無力です。智慧ある学生は理解に基づき自由に発揮します。試験の高得点者が真の智慧者とは限らず、出題内容が知識か智慧かを問うかによります。仏法においても、理論を羅列する者が実証的智慧を持つとは限りません。博識強記で理論体系を構築できても、それは知識の蓄積に過ぎない場合があります。

知識の蓄積は煩悩を断てず、意識の利発さを示すのみです。理論家に学べば知識は得られますが実証困難で、実証者に学べば智慧は成長し、必要な理論も補完できます。

末那識に智慧あれば煩悩なく視野広く、長期的判断が可能です。意識の利発さは浅智恵で過ちを招くことも。先天的智慧は末那識に由来し、後天的智慧は新たに学んだ意識の智慧、あるいは末那識の智慧でもあり得ます。

——生如法師の開示
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