衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年07月21日    日曜日     第1開示 合計4222開示

意根の種々の思想と情緒は六識によって現れます

現代社会では多くの人々が抑うつ的な心理状態にあり、中学生にまで鬱病が現れるこの問題は、大部分が業(ごう)の問題であり、一部が個人の因縁の問題に属します。抑うつの主な症状は、心が閉ざされ、人との交流がなく、内心の考えを表現できず、気分が沈んで晴れやかでないことです。このような心理状態では、意識は往々にして訳もなく、なぜ気分が沈むのか自分でも分からず、これは末那識(まなしき)の心境が円滑でないことによって引き起こされます。

末那識の思考や感情が発散されず、自分の考えや観念などを理解してくれる人がおらず、誰に打ち明け助けを求めればよいかさえ分からないため、誰も導きを与えることができません。同時に自身の意識とも意思疎通が図れず、意識が理解しないため問題が解決されず、末那識に抑うつが生じるのです。多くの人々の根本的な原因は業の問題、すなわち末那識が過去世で経験した出来事や造った業行(ごうぎょう)がもたらす当然の果報(かほう)にあります。

一方、個人の因縁の問題とは、心に抱いた願いが実現しないと抑うつになり、環境が自身の心理的欲求を満たせないと抑うつになることです。抑うつ状態の人々に普遍的に見られる特徴は、考えることは多いが行動が少ないため、考えが実現せず心理的満足が得られず、考えが蓄積されすぎて負担となり、抑うつが生じる点です。抑うつは「鬱々として志を得ず」とも呼ばれ、様々な欲望があるにもかかわらず満たされないため、気分が落ち込み抑圧的で沈んでしまうのです。

ある人々の内心には「六神主なし」(どうしてよいか分からず生きる気力を失う)という考えが浮かびますが、これも末那識の感情が主導して生み出したものであり、意識が現わしているのはまさに末那識の心の動きです。「六神主なし」とは六識(ろくしき)が何をすべきか分からず、どうすればよいか分からない状態を指します。末那識が決断できず躊躇(ちゅうちょ)し、決して決定を下そうとしないため、六識はおどおどとしてしまうのです。六識が末那識の思想や感情を表現し反応することが、すなわち六識の慌てふためきであり、拠り所がなく帰属感がないため、退屈に感じ生きることを望まなくなるのです。

感情が高ぶると心拍数が上がるのも同様に末那識の感情によるものです。例えば「怒りが心頭に発し、悪意が胆の辺りに生ずる」とは、末那識が怒り悪意を起こす様を表しています。心臓や胆、五臓六腑(ごぞうろっぷ)のすべては末那識が大脳神経システムを通じて動かしており、色身(しきしん:物質的身体)全体が末那識によって大脳神経システムを通じて動かされています。末那識は全身を制御し、全身の活動を導くことができるのです。一方、意識は怒っていても末那識が怒らない場合は仮の怒りであり、どんなに腹を立てても心には反応がなく、行動にも現れないか、仮に行動があっても見せかけだけです。真に怒りを感じた時には、行動の造作(ぞうさ:作為)や身心の状態に変化が生じ、これが末那識の感情なのです。

——生如法師の開示
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いかにして意根の機能と作用を如実に理解するか

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