衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年07月08日    月曜日     第1 回の開示 合計4215回の開示

我見から生じる我相の現れ

人間の達成感・自尊心・傲慢さ・劣等感などの諸々の感覚や感情、感得は全て受蘊に属し、我見に依って存在する。我見が無くなればこれらの感覚は消滅し、我は空となる。これらの感覚は全て我相であり、人相・衆生相・寿者相にも関わる。故に我見を断じたか否かは、これらの相から明らかに判断可能である。我見を断じた者はこれらの現象を極めて明確に見分けられ、容易に判断できる。未だ我見を断じていない者も、我見と我相の内実と現れを理解すれば、その者が我見を断じたか否かを概ね推測できる。

我相と我見は身口意の行いを通じて現れ、隠蔽することは不可能である。深く根付いた自我をどう隠せようか。身口意の行いが無いのでなければ不可能だが、それは達成し得ない。自ら無我を悟り我見を断じたと称する者も、この基準で己が我相を検証すべきである。我の感覚は色身と心理に分かれ、身覚と心覚も全て我相であり、我の有無は相から判断できる。微細な我相を有する者は我見を断ずる所に近く、粗重な我相を有する者は我見を断ずることが極めて困難である。常に己の心中の我が軽やかか重きかを点検し、修行によって変化があったかどうかを確かめるべきである。

もし初果で断ずべき我見すら断じておらず、我相が甚だしい者が大乗の明心見性の果を得ることは不可能であり、ましてや三賢位や地上菩薩の証量と果徳を具えることはない。言葉ではなく、日常生活における実際の行動、人や事柄への対応の仕方を見よ。身口意の行いは最も真実を表し、その者の徳性を如実に映し出す。理路整然と語る言葉は偽りや欺瞞に満ちており、全面的に信頼すべきではない。

我見を断じた者は必然的に我相が消滅・軽減され、自我なく低調・誠実・平等に振る舞う。人を平等に見て軽蔑も敬仰もせず、自らが他者より尊貴・特殊だと思わず、他者を卑劣・賤しいとは見ない。この平等心は我相と人相の空無に基づくもので、未だ究竟ではない。初地以上の菩薩は意根が識から智へ転じ平等性智を得るが、その平等心は小乗のそれを超え更に純粋で勝れている。我見を断じた無我の者は我相・人相・衆生相が無く、心は空であり、内省的・低調・謙虚に振る舞う。自らを誇示せず、自尊心や達成感を持たず、他人の賞賛や崇拝を求めず、評価の高低にも無頓着で、決して高ぶらない。高調に振る舞い自らを誇示する者には必ず我見と我相が存在する。

多くの者の我見は甚だ重く、自我の消失を恐れ存在感を求め、絶えず自我の価値を確立しようとする。これらは極めて明白な我相であり、このような者は我見を断ずることが困難で、今生での成就は望み薄い。無我を観じる者の中には、無我の萌芽を観じた途端に自我の消失を恐れ「私が消えたらどうなるのか」「世界を把握できなくなる」と感じ、無我の観察を続ける勇気を失う者がいる。

この時は忍耐強く、迂遠に自らの意根を徐々に染めていく必要がある。無始劫来の自我への執着は極めて深く、突然意根が依り所を失うと恐怖が生じる。我見を断ずるには意根が受け入れる過程と緩衝期間が必要である。修行には個人差のある過渡期が存在し、その長短は修練の深さによる。過渡期を早く超えるには、無始以来の我執による罪業を懺悔し、楞厳咒を誦するか礼拝懺悔で仏菩薩の加護を求め、空の理論を学び空理を思惟し続けることが肝要である。

——生如法師の開示
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