衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年07月07日    日曜日     第1開示 合計4214開示

菩薩は衆生を済度するに当たり三輪体空であるべきである

その時、須菩提(スブーティ)は仏に申し上げた。「世尊よ。善男子・善女人が阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心を発(おこ)したならば、いかにして心を住まわせるべきでしょうか。いかにして心を降伏(ごうぶく)すべきでしょうか」。仏は須菩提に告げられた。「善男子・善女人が阿耨多羅三藐三菩提の心を発したならば、このような心を生ずべきである。『われは一切の衆生を滅度(めつど)すべきである』と。一切の衆生を滅度した後でさえ、実際には一人の衆生も滅度されたものは存在しない。なぜならば、須菩提よ。もし菩薩に我相(がそう)・人相(にんそう)・衆生相(しゅじょうそう)・寿者相(じゅしゃそう)があれば、それは菩薩ではないからである。なぜそうなのか。須菩提よ。実際には阿耨多羅三藐三菩提の心を発する法(もの)は存在せず、阿耨多羅三藐三菩提の心を発する者も存在しないのである」。

釈:須菩提が仏に尋ねた。「世尊よ、善男子・善女人が阿耨多羅三藐三菩提の心を発したならば、いかにして心を住まわせ、いかにしてその心を降伏すべきでしょうか」。仏は須菩提に告げられた。「善男子・善女人が阿耨多羅三藐三菩提の心を発したならば、このような心を生ずべきである。『われは一切の衆生を寂滅(じゃくめつ)に導くべきである』と。一切の衆生を寂滅に導いた後でさえ、実際には一人の衆生も寂滅に導かれたものは存在しない。なぜこのような心を生ずべきなのか。須菩提よ、もし菩薩の心に我相・人相・衆生相・寿者相があれば、彼は真の菩薩ではないからである。なぜ彼は真の菩薩ではないのか。須菩提よ、この世の中には実際に阿耨多羅三藐三菩提の心を発するという法(もの)は存在せず、菩提心を発する者も存在しない。もし人が我相・人相・衆生相・寿者相を持っているならば、我見(がけん)も断ち切られておらず、菩薩でもないのである」。

菩薩が衆生を救おうと心に誓うとき、いかなる心構えで衆生を救うべきか。菩薩が衆生を救うには三輪体空(さんりんたいくう)であるべきで、我相・人相・衆生相・寿者相を持ってはならない。我が無く、人が無く、衆生が無く、寿者が無いという空(くう)の心をもって衆生を救うべきである。なぜならば我相は空であるから、真実の私が衆生を救うことはありえない。人相と衆生相は空であるから、救われる衆生も存在しない。そうなれば私が衆生を救うという事柄そのものが空であり、実体あるものではない。もし菩薩が「私が衆生を救った」「衆生が私によって救われた」と執着するならば、無我を証得しておらず、心が空(くう)になっていないので、真の菩薩ではない。衆生は空であるのに、どうして救われることがありましょうか。私が空であるのに、どうして救うことができましょうか。それゆえ菩薩が一切の衆生を寂滅に導いても、真理の境地においては、実際には一人の衆生も救われてはいないのである。

菩提心を発する者は空であり、菩提心を発するという事柄も空である。それは幻(まぼろし)のようなものであり、事相(じそう)の上では存在するが、理(ことわり)の上では存在しない。存在するのは仮(け)の存在であり、この幻のような事柄によって修行を積めば仏となることができる。しかし仏となるという事柄もまた空であり、幻のようなものである。真理の境地においては成すべき仏も存在せず、凡夫として得るべきものも存在しない。すべては夢幻泡影(むげんほうよう)のごとく、虚無縹渺(きょむひょうびょう)であり、真実でもなく虚偽でもなく、真実でもあり虚偽でもある。真実と虚幻、実と虚を、わざわざ捉えようとする必要はない。事柄は為すべきであるが、心は空でなければならない。菩薩は衆生を救うことだけでなく、布施などの六波羅蜜(ろっぱらみつ)を含むすべての修行においても三輪体空でなければならず、一切を空に徹して初めて真の境地に至るのである。

——生如法師の開示
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