その時、須菩提は仏に申し上げた。「世尊よ、善男子・善女人が無上正等正覚の心を発したならば、いかに住すべきでありましょうか。いかにしてその心を降伏すべきでありましょうか」
仏は須菩提に告げられた。「善男子・善女人が無上正等正覚の心を発したならば、かくの如き心を生ずべきである。『われは一切衆生を滅度すべきである』と。一切衆生を滅度し終わって、しかも実際には一衆生として滅度されたものは存在しないのである。なぜならば、須菩提よ、もし菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相あれば、すなわち菩薩にあらず。その故はいかに。須菩提よ、実に無上正等正覚の心を発する法というものは存在しないのである」
釈:須菩提が仏に問うて言う「世尊、善男子善女人が無上正等正覚の心を発した場合、いかに安住すべきか、いかにその心を調伏すべきか」。仏が須菩提に告げる「善男子善女人が無上正等正覚の心を発するならば、かかる心を生ずべきである。われは一切衆生を滅度すべし、一切衆生を滅度し終わっても、実際には一衆生として滅度されたものは存在しない。なぜこのような心を生ずべきか。須菩提よ、もし菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相あれば、真の菩薩ではない。なぜ真の菩薩でないのか。須菩提よ、世の中には実は無上正等正覚の心を発する法は存在せず、菩提心を発する者もない。もし人が我相・人相・衆生相・寿者相を有するならば、我見を断じておらず、菩薩でもない」
菩薩が衆生を度す心を発するに当たり、いかなる心構えで臨むべきか。菩薩は三輪清浄の境地をもって衆生を度すべきであり、我相・人相・衆生相・寿者相を離れ、無我・無人・無衆生・無寿者の空寂の心をもって衆生を度すべきである。我相は空なるが故に、実在の我が衆生を度すことはなく、人相と衆生相も空なるが故に、度される衆生も存在しない。されば菩薩の衆生を度す行いは空であり、実体あるものではない。もし菩薩が「我が衆生を度した」「衆生が我に教化された」と執着するならば、無我を証得せず、心が空でないため真の菩薩ではない。衆生は空なるが故に、どうして度されようか。我は空なるが故に、どうして度すことができようか。故に菩薩が一切衆生を滅度しても、真実の理法においては一衆生も度されたものはないのである。
菩提心を発する者は空であり、菩提心を発するという事柄も空である。これは幻化の如く、事相には存在するも理法には存在せず、仮の存在に過ぎない。この幻のような行いを修することによって仏と成るのであるが、成仏という事柄もまた空であり幻化である。真実の理法においては成すべき仏もなく、凡夫として得るものもない。全ては夢幻泡影の如く、虚無縹渺として真実でもなく虚偽でもない。真実と虚構、実と虚、これらを把捉する必要はない。事相としては行いを為すが、心は空寂でなければならない。菩薩は衆生を度すに当たり三輪清浄であるべきみならず、布施などの六波羅蜜万行も全て三輪清浄でなければならない。徹底的に空寂の境地に至って初めて真実の悟りに到るのである。
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