衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
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日常法話

2024年07月02日    火曜日     第1開示 合計4210開示

なぜ忍辱波羅蜜は非忍辱波羅蜜なのか?

原文:何故かというに。須菩提よ。我が昔、歌利王のために身体を割截せられた時、我その時に於いて、我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相なし。何故かというに。我が往昔、節々支解せられたる時、もし我相・人相・衆生相・寿者相あらんには、応に瞋恨を生ずべし。須菩提よ。また過去五百世に忍辱仙人として在りしことを念う。その世に於いて、我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相なし。

釈:仏は言われた:須菩提よ、例えば我が往昔、歌利王に身体を割截せられた時、我が当時の内面には我相がなく、人相がなく、衆生相がなく、寿者相がなかった。なぜそう言えるのか。それは我が往昔、身体を一節一節と肢解された時、もし心に我相・人相・衆生相・寿者相があったならば、瞋恨の心が生じたであろうからだ。須菩提よ、我はまた思い出す、過去五百世において忍辱仙人として在ったことを。我はその五百世の間、内面に我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相がなかった。

世尊が往昔、歌利王に身体を割截せられた時、心中に我相・人相・衆生相がなかったために、歌利王に対する瞋恨の心が生じなかった。世尊に我相があれば、「我が身体を割截された、私は苦しい」と感じ、苦しみのために瞋恨の心が生じたであろう。世尊に人相・衆生相があれば、「歌利王が従者に命じて我が身体を損傷させ、私の身体に痛みを引き起こした」と感じ、歌利王とその従者たちに対して瞋恨の心を生じたであろう。しかし世尊は当時、確かに我相・人相・衆生相がなく、歌利王が自らの身体を一節一節と肢解したにもかかわらず、世尊は何らの瞋恨も生じなかった。表面的には世尊が忍辱行を修め、忍辱波羅蜜を持っているように見えるが、実際には世尊は忍辱していなかった。なぜなら世尊の心には相がなく、辱められているとも感じず、忍ぶ必要もなかったからだ。それ故に忍辱はなく、忍辱波羅蜜もなかったのである。

世尊は過去生の五百世においても忍辱仙人となり、専ら忍辱波羅蜜を修めたが、しかし世尊に我相・人相・衆生相がなかったために、辱められていると感じず、従って何を忍ぶべきものも感じなかった。忍辱波羅蜜はありながら忍辱の相がなく、世尊の忍辱波羅蜜は即ち忍辱波羅蜜に非ずであった。世尊の心にこれらの相があれば、忍辱が必要となり、忍辱波羅蜜があったであろう。故に所謂る忍辱波羅蜜は、即ち忍辱波羅蜜に非ず、これは忍辱行を修め成した者の境地である。まだ忍辱行を修め成していない者には忍辱の相があり、おそらく忍辱波羅蜜もあるであろう。

同様に、布施波羅蜜を修める者も、もし心中に我相・人相・衆生相・寿者相がなければ、私が布施していると感じず、私が誰に何の財物を布施したかと悩むこともなく、布施の相がなく、布施波羅蜜もない。心は空しく清浄で広大であり、掛かり礙がなく、得る福徳は最も広大で無量無辺である。持戒者も心中に我相・人相・衆生相・寿者相がなければ、私が持戒している相がなく、持つべき戒の相もなく、持戒波羅蜜の相もない。守るべき戒、持つべき戒が無くてこそ真の持戒であり、負担がなく心は空しく礙りがない。精進波羅蜜、禅定波羅蜜、智慧波羅蜜を修めることも皆同じである。我相・人相・衆生相・寿者相がなければ、精進波羅蜜の相がなく、禅定波羅蜜の相がなく、智慧波羅蜜の相がなく、修行の相がなく、それこそが真の精進・禅定・智慧である。

——生如法師の開示
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六波羅蜜もまた空相であります

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菩薩はなぜ菩提心を発する時に相に住してはならないのですか?

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