何故かというと、須菩提よ。私が昔、歌利王に身体を切断された時、私はその時、我相がなく、人相がなく、衆生相がなく、寿者相がなかった。何故かというと、私が過去に身体を節々に分解された時、もし我相・人相・衆生相・寿者相があれば、瞋恚の心が生じたはずだからである。須菩提よ、また過去五百世に忍辱仙人として修行したことを思い起こすが、それらの世においても我相がなく、人相がなく、衆生相がなく、寿者相がなかった。
世尊が往昔に歌利王に身体を切断された時、我相・人相・衆生相がなかったため、歌利王に対する瞋恚心が生じなかった。もし世尊に我相があれば、「私の身体が切断され、私は苦痛を受けた」と感じ、苦痛から瞋恚心が生じたはずである。もし人相・衆生相があれば、「歌利王が従者に命じて私の身体を損傷させ、痛みを引き起こした」と考え、歌利王とその従者たちに瞋恚心を抱いたはずである。しかし実際には世尊にはそれらの相がなく、身体を節々に切断されても一切の瞋恨を生じなかった。表面的には忍辱行を修め忍辱波羅蜜を成就したように見えるが、実は世尊には忍辱の行為は存在しない。なぜなら無相の境地にあるため、辱めを受けるという認識がなく、忍ぶ必要もなかったからである。つまり忍辱も忍辱波羅蜜も存在しなかったのである。
世尊は過去五百世において忍辱仙人として忍辱波羅蜜を修めたが、我相・人相・衆生相がなかったため、辱めを受けるという認識がなく、忍ぶべき対象も感じなかった。したがって忍辱波羅蜜は忍辱波羅蜜にあらずという境地に至った。もし世尊にこれらの相があれば、忍辱が必要となり、忍辱波羅蜜が成立したであろう。故に忍辱波羅蜜と称されるものは即ち忍辱波羅蜜にあらず、これは忍辱行を完成させた者の境地である。未だ忍辱行を修めていない者には忍辱相が存在し、忍辱波羅蜜が成立する可能性がある。
同様に、布施波羅蜜を修める者が我相・人相・衆生相・寿者相がなければ、自分が布施しているという認識がなく、何を誰に施したかに執着しないため、布施相も布施波羅蜜も存在しない。心は空・清浄・広大であり、何ものにもとらわれないため、得る福徳は最も広大で無量無辺となる。戒律を保つ者もこれらの相がなければ、戒を保つ自己の相も、保たれる戒の相もなく、持戒波羅蜜の相も存在しない。守るべき戒のない状態こそ真の持戒であり、心は自由でとらわれがない。精進波羅蜜・禅定波羅蜜・智慧波羅蜜の修行も同様で、これらの相がなければ精進・禅定・智慧の修行相がなく、真の精進・禅定・智慧が現れるのである。
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