衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年06月30日    日曜日     第1 回の開示 合計4208回の開示

なぜ我相・人相・众生相・寿者相は即ち非相なのでしょうか?

如く、来たるべき世の後五百歳に、もし衆生有りて、この経を聞くことを得、信解受持する者は、この人すなわち第一の希有と為す。何を以っての故にか。この人は我相無く、人相無く、衆生相無く、寿者相無し。何の故にか。我相はすなわちこれ相に非ず。人相・衆生相・寿者相もすなわちこれ相に非ず。何を以っての故にか。一切の諸相を離るれば、すなわち諸仏と名づく。

釈して曰く、もし未来世において仏法滅尽せんとする前の五百年の中に、なお衆生有りてこの金剛経を聞くことを得、清浄なる信を有し、金剛心を正しく解し、金剛経を受持する者は、この人すなわち第一希有の者なり。何故にこの人は第一希有の者なるや。この人は既に我相無く、人相無く、衆生相無く、寿者相無きが故なり。何故にこの人四相無きや。我相は実有の相に非ず、人相は実有の相に非ず、衆生相は実有の相に非ず、寿者相は実有の相に非ざるが故なり。何故にこう言うや。すべての仏は皆一切の諸相を離れたもう。一切の諸相を離るる者、すなわち仏と名づくるなり。

仏法まさに滅せんとする後五百年の世の中はさらに濁悪を増し、衆生の煩悩はさらに重く、善根はさらに少なく、この時にあってなお衆生の金剛経を聞くことを得るは、善根福徳必ずや甚だ深厚なるべく、聞いた後大いに信受し、かつ金剛心を証解し、金剛経を護持流布する者は、この人すなわち善根極めて深厚なる者、稀なる久修の菩薩にして、普通の人に非ず。金剛心を証得した後、五蘊空の理を明らかにすれば、この人の心中には我相・人相・衆生相・寿者相無く、これらの相は五蘊に依って有り、五蘊一たび空しくなれば四相すなわち消失し、徳相顕現して稀なる聖賢と為る。

何故に四相消失し得るや。四相は本来真実存在する相に非ず、金剛心の幻化する仮相なるが故に、生滅の性質を有し、空にして不可得なり。もし実有の相ならば、空じ去ること能わず、如何なる努力を以ってしてもこれらの相を消失せしむること能わざるべし。金剛心を証解した後、縁に遇い境に対す時現前に観察して、我相は金剛心の生起する所、人相は金剛心の生起する所、衆生相は金剛心の生起する所、寿者相もまた金剛心の生起する所なるを知れば、かくして四相は次第に滅尽し、空相の智慧ますます深遠に入る。さらに次第に他の法相を空じ去り、一切の法相ことごとく空尽すれば、すなわち仏道を成就す。

故に仏は説きたまう「一切の諸相を離るるを、諸仏と名づく」と。ここに諸仏には二種の意義有り。一つには五蘊身を有する応化身仏、二つには法身仏なり。法身仏は本来無始劫より常に一切の相を離れ、空にして一相も無く、形無く相無く、色声香味触法の相無し。眼耳鼻舌身意を以ってしても真容を得見すること能わず。この時応化身仏もまた一切の相を離れ、一切の相を空じ、一切の相に着くこと無し。応化身仏と法身仏は心性一致し、同じく清浄無為、すなわち功徳円満の諸仏なり。

——生如法師の開示
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