原文:もし当来の世、後の五百歳に、衆生あって、この経を聞くことを得て、信解受持する者は、この人すなわち第一希有なり。なんとなれば、この人は我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相なきがゆえなり。いわゆるなんぞや。我相はすなわちこれ相にあらず。人相・衆生相・寿者相はすなわちこれ相にあらず。なんとなれば、一切の諸相を離るれば、すなわち諸仏と名づく。
釈:もし未来世、仏法が滅する前の五百年の中に、なお衆生がこの金剛経を聞くことを得、清浄なる信をもち、金剛心を正しく解し、金剛経を受持するならば、この人は第一の希有なる人である。なぜこの人は第一の希有なる人なのか。この人はすでに我相なく、人相なく、衆生相なく、寿者相なきがゆえである。なぜこの人は四相なきのか。我相は実有の相にあらず、人相は実有の相にあらず、衆生相は実有の相にあらず、寿者相は実有の相にあらざるがゆえである。なぜこう言うのか。すべての仏はみな一切の諸相を離れているからである。一切の諸相を離れた人こそ、仏と名づけられるのである。
仏法がまさに滅せんとする後の五百年においては、世間はさらに濁悪となり、衆生の煩悩はより重く、善根はますます鮮少となる。このときなお衆生が金剛経を聞くことができれば、その善根・福徳はきわめて深厚であり、聞いたのちに深く信受し、かつ金剛心を証解し、金剛経を護持し流布するならば、この人は善根きわめて深厚なる人であり、非常に希有なる久修の菩薩であって、もはや普通人ではない。金剛心を証得したのち、五蘊空の理を明らかにすれば、この人の心中には我相・人相・衆生相・寿者相がなくなる。これらの相は五蘊によって有るがゆえに、五蘊が空じられると四相は即時に消滅し、徳相が顕現して、すなわち希有の聖賢となるのである。
なぜ四相が消失しうるのか。四相は本来、実在する相ではなく、金剛心が幻化した仮相であるがゆえに、生滅の性質を有し、空であり、不可得である。もし実有の相であれば、それは空じることができず、いかに努力してもこれらの相を消失させることはできない。金剛心を証解したのち、縁に遇い境に対したときに現前に観察すれば、我相は金剛心によって生じ、人相は金剛心によって生じ、衆生相は金剛心によって生じ、寿者相もまた金剛心によって生ずることを知る。かくして四相は次第に滅尽し、空相の智慧はますます深く入っていく。さらに次第に他の法相をも空じ、一切の法相がことごとく空尽したとき、ついに仏道を成就するのである。
ゆえに仏は説かれた:一切の諸相を離るるを、諸仏と名づく、と。ここでの諸仏には二つの意味がある。一つは五蘊身を有する応化身仏を指し、二つには法身仏を指す。法身仏そのものは無始劫よりこのかた、常に一切の相を離れ、空にして一相もなく、形なく相なく、色声香味触法の相なく、眼耳鼻舌身意をもってしても真容を得見することはできない。このとき応化身仏もまた一切の相を離れ、一切の相を空じ、一切の相に着することなく、応化身仏と法身仏の心性は一致し、同様に清浄無為であって、はじめて功徳円満の諸仏となるのである。
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