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煩悩无尽誓願断
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日常開示

2024年06月18日    火曜日     第1 回の開示 合計4196回の開示

なぜ須陀洹は「私は須陀洹果を得た」という念いを抱いてはならないのか

金剛経原文:須菩提よ、どう思うか。須陀洹はこのような念いを起こすことができるか。我は須陀洹果を得た、と。須菩提は言う。いいえ、世尊。なぜなら、須陀洹は入流と名付けられるが、入る所なく、色声香味触法に入らない。これを須陀洹と名付ける。

仏が須菩提に問う:この問題をどう考えるか。初果の須陀洹は「我が須陀洹果を証得した」という念いを持つことができるか。須菩提は答える:そのような念いを持つことはできません、世尊。なぜなら、須陀洹は聖道の流れに入った者と称されますが、聖道の流れに入った者は世俗の法に入る所なく、世俗界の色声香味触法に入らない。これが真に須陀洹と名付けられる所以です。

初果の須陀洹は我見を断じたばかりで、五蘊十八界の法を我あるいは実在のものと認めず、我見我相を離れています。故に「我が我見を断じて初果の者となった」という認識もなく、我見を断じた者も存在せず、須陀洹という果も存在しません。須陀洹果は仮設された方便に過ぎず、実在の法ではなく、実体として執着すべきものではありません。もしこれを実体と執着すれば、我見と法見が生じ、もはや須陀洹とは言えません。もし「我は初果の者である」という念いを抱く者がいれば、その者の我相は明らかに残っており、初果の者ではないのです。

故に「我は果を証得した」「我は心を明らかにした」と日々叫び、広く喧伝し誇示する者を見れば、これらの者が重い我見を抱き、我相を具足していることが明らかです。これは紛れもない凡夫の相です。常に「我は聖人である」「我は何果の者である」「我は三賢位の菩薩である」「我は何地の菩薩である」「我は何々を修めた」「我は過去世で如何なることをした」「我は衆生のために何々をした」と執着し、広く語り伝え、人々に知られないことを恐れ、人々の恭敬を受け、五体投地の崇拝を求め、名声が広まることを願う行為は、明らかに重い我見と具足した我相、凡夫相を示しており、これは完全なる凡夫であります。

既に我見を断じたならば、我相は存在せず、我が我見を断じた相もなく、心中から我が空じ、果も空じます。真実の理法においては我見を断じたという事実も存在せず、須陀洹という者も存在しません。無為の心が現れた時、初めて無為法を証得した須陀洹と言えます。もし我や我相があれば、無為ではなく、無為の果もありません。故にある者が我見を断じたかどうかは、その言行から判断できます。言葉と実際の行動が調和しているか、心が空しく、低姿勢で、自己宣伝を好まないかを見ればよいのです。もし口に「我」を好み、至る所で自己を顕示する者がいれば、その者は我相を具足しており、我見を断じておらず、須陀洹の者ではありません。

——生如法師の開示
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なぜ二果の斯陀含は「我、斯陀含果を得たり」という念いを持ってはならないのでしょうか。

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