金剛経原文:須菩提よ、汝はどう思うか。須陀洹(しゅだおん)は『我は須陀洹果を得たり』という念いを起こすことができるか。須菩提言く、否です、世尊よ。何故ならば、須陀洹は入流(にゅうる)と名づけられるが、入る所なく、色声香味触法に入らず、これを須陀洹と名づけるからです。
仏が須菩提に問う:汝はこの問題をどう考えるか。初果の須陀洹は「我は須陀洹果を証得した」という念いを持つことができるか。須菩提は言う:そのような念いを持つことはできません、世尊よ。何故でしょうか。須陀洹は聖者の流れに入ったと名づけられますが、聖者の流れに入った者はこの世俗の法の中では入る所がなく、世俗界の色声香味触法に入りません。このようにして初めて名実相伴う須陀洹と言えるのです。
初果の須陀洹は我見(がけん)を断ったばかりで、五蘊十八界の法が我であり真実であるとは考えず、我見・我相(がそう)がなくなっています。それ故に「我が我見を断って初果の者となった」という我もなく、我見を断った者もおらず、須陀洹という人もおらず、須陀洹果という果もありません。須陀洹果は仮に施設されたものであり、実在する法ではなく、実体として執着すべきものではありません。もしこれを実体有るものと執着すれば、我見と法見(ほうけん)があることになり、須陀洹の者とは言えません。もし「私は初果の者である」という念いを持つ者がいれば、この者の我相は明らかに存在しており、初果の者ではないのです。
それ故に、終日「私は果を証得した」「私は明心した」と叫び、至る所で宣伝し自慢する者たちは、明らかにこれらの者は我見が非常に重く、我相が具足しており、疑いなく凡夫(ぼんぶ)であると判断できます。常に「私は聖人である」「私は何果の者である」「私は三賢位の菩薩である」「私は何地の菩薩である」「私は何々を修めた」「私は過去世で如何であった」「私は衆生のために何々をした」と執着し、至る所で吹聴して回り、人に知られないことを恐れ、人に恭敬されることを強く望み、人に五体投地で崇拝されることを強く望み、自らの名声が広く知られることを強く望む――これらの行為は明らかにこの者が我見が重く、我相が具足し、凡夫の相も具足していることを示しており、完全な凡夫なのです。
既に我見を断ったならば、もはや我相は存在せず、我が我見を断った相もなく、心中の我も空(くう)じ去られ、果も空じ去られます。実際の理の境地には我見を断ったという事実は存在せず、須陀洹というような者もいません。無為の心が現れてこそ、無為法を証得した須陀洹の者と言えるのです。もし我や我相があれば、無為ではなく、無為の果もありません。それ故に、ある者が我見を断ったかどうかを判断するには、その者の言行からも判断でき、この者が言動と実際の行動・振る舞いにおいて心が空であるか、低姿勢であるか、自己顕示を好まないかを見ることができます。もしこの者が「我」を口に出すことを好み、至る所で自己を誇示するならば、我相が具足しており、我見を断っておらず、須陀洹の者ではないのです。
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