衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年06月16日    日曜日     第1開示 合計4194開示

なぜ如来には定法がないのですか

金剛経原文:須菩提言く。我が仏の説きたまう所の義を解するに、定まった法有ること無し。名づけて阿耨多羅三藐三菩提と。また定まった法有ること無し。如来の説くべき。何んの故にか。如来の説きたまう所の法は、皆取るべからず。説くべからず。法に非ず。法に非ざるに非ず。一切の聖賢は皆無為の法を以って差別有り。

この段の解釈は以下の通り:須菩提は仏に答えて言う:私が仏陀の説かれた法の内実を理解する限りでは、固定不変の法として阿耨多羅三藐三菩提と名付けられるものは存在せず、実体ある法として阿耨多羅三藐三菩提と名付けられるものも存在しない。なぜそう言えるのか。阿耨多羅三藐三菩提は無上正等正覚とも呼ばれ、つまり仏道を成就したことを意味するが、成仏という事柄は先天から存在する固定不変の法ではなく、後天において三大阿僧祇劫の修行を通じて成就されるものであり、したがってこれもまた生滅するものであり、無から有へと生じたものである。よってそれは定まった法ではなく、実有の法でもない。

また、如来が説くべき定まった法も存在しない。なぜそう言えるのか。如来が娑婆世界で四十九年にわたり説かれた法である三蔵十二部経は、実体あるものとして執着すべきではなく、さらに如来が十方世界で説かれた一切の法も、実体あるものとして執着すべきではないからである。なぜ実体あるものとして執着してはならないのか。仏の説かれる法はすべて様々な因縁によって出現するものであり、もし因縁がなければ、これらの法は存在せず、仏陀も何ら法を説くことはないからである。仏陀が衆生を救済するというような大事業でさえも、因縁が成熟し具足していることが必要であり、また衆生の福徳因縁や善根因縁、解脱への願いなども必要である。一つの因縁が欠けても、仏陀は衆生を救うことができない。そして衆生を救済するために説かれる法は、因縁に随い定まり、衆生の器量(根器)や福徳、智慧に随って定まるものであり、説くべき定まった法は存在しない。

定まった法とは、固定不変で、元々存在する法であり、因縁によって変化せず、因縁によって変異することもなく、実在する一層不変の法である。どんな衆生にも同じ法を用い、衆生がどのような根基(素質)であろうと、またどのような因縁が現前しようと、全て同じ法を用いる。明らかに、これは正しくなく、実現不可能であり、実行も不可能であり、そのような法は存在しない。因縁によって生じた法は、先天から存在する法ではなく、いずれも定まった法ではない。したがって、如来が衆生を救うには、説くべき定まった法は存在しないと言える。

したがって如来の説かれる法は、実有の一層不変の法として説くことはできず、また生滅変異する法であり、無から有へと生じ、有はまた無へと帰し、彼岸に到れば捨て去られる法でもある。それはまた空の法でもある。ゆえに名付けて法とは言うが、実際には法には自性がなく、自らの実体性を説くことはできない。したがってそれは法ではない(非法)。しかし、全く法ではないわけでもない。畢竟、虚妄の作用はあり、仮の法であっても仮に用い借用することができ、衆生がそれを用いて成仏することが可能であり、成仏した後で捨て去るものである。ゆえに仏の説かれる法はまた法ではないわけでもない(非非法)のであり、全く法ではないわけではない。

如来の説かれる法がすべて非法であり、因縁によって生じた法であり、定まった法がないのであれば、如来は異なる根器の衆生に対し、異なる因縁に随って説かれた法を、衆生が修学した後に、異なる次元の無為法を証得し、大乗・中乗・小乗の無為を含み、同じ乗の間の無為法にも差別がある。こうして異なる次元、異なる差別を持つ聖賢が成就される。一切の聖賢は善根、福徳、因縁が異なるが故に、皆、証得した無為法によって差別があるのである。

——生如法師の開示
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