衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年06月15日    土曜日     第1開示 合計4193開示

なぜ一念の浄信者は四相も無く、法相も無く、非法相も無いのでしょうか?

仏陀の説かれた「諸相非相ならば、即ち如来を見る」との教えを清浄に信じる者は、信根が非常に具足しており、すでに無量千万の仏のもとで厚い善根福徳を植えております。清浄信に到達し得る者は、金剛心を実証し、四相を空じ法相を空じた者でなければならず、実証した後に初めて法相と非法相に疑いがなくなり、その信は純粋となります。証信こそが清浄信であり、実証以前の信には程度の差こそあれ疑念が含まれており、清浄でも純粋でもありません。金剛心を実証した後は、心の中に我相・人相・衆生相・寿者相がなくなり、眼前にこれらの相が全て金剛心が幻化した仮の相であることを観察し、故に全てが空であると悟るのです。

四相は比較的粗浅であり、必要な観察智慧はそれほど深細である必要はありません。法相は四相よりもさらに微細であり、必要な観察智慧はより深細です。故に四相を空じる智慧は法相を空じる智慧よりも浅く、三賢位の般若智慧に属します。一方、法相も非法相もない状態は、初地以降の唯識種智に属します。四相は衆生の五蘊の範疇内にありますが、法相は五蘊の範疇を超えていないものの非常に微細で観察が困難です。例えば、世の中のあらゆる習俗・風習、全ての規則・法則・法律制度、人類の行動規範や準則、種々の思想観念、各学問分野の学術技術知識、自然界のあらゆる現象、そして仏教における各種修行法則・理念・観念・認識など、これらの法相はあまりに多く広範かつ深細であり、言葉に表せないものも多く、全て唯識種智の範疇に属します。そしてこれらの法相は全て非法相であり、ただ名づけて法相というに過ぎないのです。

仏の説かれた甚深な法理に対して一瞬のうちに清浄信を生じる者は、心の中に四相がないだけでなく、法相も破り、さらに非法相までも破っております。心は極めて清浄で一切の相を取らず執着せず、智慧は非常に深く鋭いのです。四相を破っていない凡夫の衆生も、仏の説く甚深な法理を信じてはいますが、未証であるが故に心に疑念があり、その信は証信ではないため純粋とは言えません。四相だけを破った菩薩は法を証して証信を得てはいますが、まだ破られていない法相が残っており、証は不十分で、その信も完全に純粋ではありません。法相と非法相を破り、内心が非常に空しく清らかで相に執着しなくなってこそ、真実の清浄信を持つ菩薩と言えるのです。

もし心に取着があるならば、四相が存在します。我があるから取るのであり、我がなければ誰が取るのでしょうか。故に、相を取る者には必ず我相・人相・衆生相・寿者相があり、法相を取る者にも我相・人相・衆生相・寿者相があり、非法相を取る者にも我相・人相・衆生相・寿者相があるのです。それゆえ菩薩は法を取るべきではなく、非法も取るべきではありません。仏は説かれました:「私の説く法は筏(いかだ)に譬えることができる。筏は水を渡る際には必ず用いるが、岸に着いた時には捨てなければならない。そうしなければ彼岸に至れない」と。法は有用な時には用い、実証後に不要となれば捨てるべきです。法を捨てるだけでなく、非法も捨てなければなりません。心に法や非法がある状態は空しく清らかではなく、彼岸の涅槃に至ることはできないのです。法を有とし、非法を無としますが、有は非(誤り)であり、無もまた非です。非である以上当然捨てるべきであり、是と非を立て取るやいなや、四相は空じられません。有が非であるならば、それに対立する無も当然非であり、一切の法は非法でも非非法でもありません。四相を離れ百非を絶ってこそ、究竟の境地に至るのです。この一品で法相と非法相が破られたのであります。

——生如法師の開示
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なぜ色身をもって如来を見ることはできないのですか

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なぜ如来には定法がないのですか

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