仏陀の説かれた「諸相は相にあらざるを見れば即ち如来を見る」という教えを清浄に信じる者は、信根が非常に具足しており、無量千万仏の元で深い善根福徳を培ってきたのである。清浄信に達する者は、金剛心を実証せず、四相を空じ法相を空ずる者でなければならず、実証後に初めて法相と非法相に対する疑いがなくなり、その信は純粋となり、証信こそが清浄信である。実証前の信は程度の差こそあれ疑念を含み、清浄純粋ではない。金剛心を実証した後、心には我相・人相・衆生相・寿者相がなくなり、現前にこれらの相が金剛心が幻化した仮の相であることを観察するため、全て空であると悟る。
四相の観察は比較的粗浅で、深遠な智慧を必要としないが、法相は四相よりさらに微細であり、より深い観察智慧を要する。故に四相を空ずる智慧は法相を空ずる智慧より浅く、三賢位の般若智慧に属し、法相も非法相も空ずることは入地後の唯識種智に属する。四相は衆生の五蘊の範疇内にあるが、法相は五蘊を超えないものの極めて微細で観察困難である。例えば世間の習俗・風習、規則・法則・法律制度、人間の行動規範、思想観念、学術技術知識、自然現象、仏教の修行法則・理念・認知など、これら法相はあまりに広範深細で言語化不能なものが多く、全て唯識種智の範疇に属する。而してこれらの法相は非法相であり、ただ名相に過ぎない。
仏の説く深甚な法理に対し一瞬で清浄信を生じる者は、心に四相が無いだけでなく法相をも破り、更に非法相までも破っており、心は極めて清浄で一切の相を執着せず、智慧が非常に深利である。四相を破らぬ凡夫衆生は仏の深法を信じつつも未証のため疑念を抱き、その信は証信でない故に純粋ではない。四相のみを破った菩薩は法を証して証信を得るも、未だ法相を破らず証が不充分で、その信も純粋ではない。法相と非法相を破り内心が空寂で相に執着しなくなってこそ、真の清浄信の菩薩と言える。
心に執着ある者は四相を有す。我あればこそ執着が生じ、我なき者に誰が執着せん。故に相を取る者は我人衆生寿者相を有し、法相を取れば我人衆生寿者相を有し、非法相を取れば我人衆生寿者相を有する。菩薩は法も非法も取るべからず。仏は説きたまう「我が説く法は筏に譬えられる。渡河時には用いるも到岸すれば捨てねばならず、然らざれば彼岸に至れない」と。法は必要時には用い、実証後は捨てるべきである。法のみならず非法も捨てねばならず、心に法と非法があれば空寂せず涅槃に至れない。法は有、非法は無、有は非、無もまた非。是非が立つや否や四相は空じない。有が非なれば対立する無もまた非。一切の法は非法非非法、四相を離れ百非を絶してこそ究竟の境地に至る。本品は法相と非法相を破するものである。
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