仏は答えられた:如来の説く身相は、即ち身相に非ず(是れを身相と名づく)。衆生の身相であれ、如来の身相であれ、真実の不生不滅・永遠不変なるものではなく、仮に身相と名づけられているに過ぎない。故にそれは衆生を代表することもできず、如来を代表することもできない。もし身相を以て衆生と見做し、身相を以て如来と見做すならば、身相が滅した時、衆生は消滅し、如来もまた消失してしまう。しかし如来は永遠不変であり、決して消滅することはない。
如来はまた仏陀の性徳であり、常楽我浄の真如の心体である。それは無相であり、色身の特徴を持たず、身相というものがない。故に身相を以て如来と見做すことは大きな誤解であり、このような見方では如来を見ることはできない。如来を見ようとするならば、身相を通して性徳を見、無相の真体を見る必要がある。無相こそ真実であり、有相は仮である。仮相に仮に名づけて身相と呼ぶのである。ではこの身相は如何にして現れたのか。それは仏陀が三大阿僧祇劫にわたる修行により、積み重ねた智慧の功徳と福徳によって感得した果報身、すなわち三十二相八十種好であり、仏陀の真如無垢識が化現したものである。無から有へと生じた生滅の体である故に、虚妄・虚幻なるものであり、如来そのものではなく、真の仏陀ではない。
では如何にして如来、真の仏陀を見ることができるのか。仏陀は答えとして四句の偈を説かれた:「凡そ所有の相は、皆是れ虚妄なり。若し諸の相、相に非ざるを見れば、すなわち如来を見る」。答えは結果であるが、その答えを得る過程は参禅・参究による。前提条件として戒定慧の三学が具わり、菩薩の六波羅蜜が円満でなければならない。小乗の三十七道品はなおさら具わっている必要がある。なぜなら小乗ですら証することができないものを、大乗はなおさら証することができないからである。
「凡そ所有の相」とは一切の相を指す。我相・人相・衆生相・寿者相・五蘊相・事相・物相・心相・法相、例外なく全て非相であり、虚妄で真実として存在しない。これらは金剛心から生じ、変幻して現れた仮相である。もし如来を見ようとし、金剛般若の実相心を見ようとするならば、参禅を通じて、一切の相においてこれらの相の実質が何であるかを参究し、何によってこの一切の相が存在するのか、何によってこの一切の相が生じまた滅するのかを究明しなければならない。参究が透徹し、金剛般若心を証得すれば、これらの相が全て空にして自性がなく、本体の相ではなく、実質・本体としての相が存在せず、全てが金剛心の功能作用であることがわかる。
あたかも風が吹いて木が揺れるように、木そのものが揺れ動くのではなく、揺動という現象は木そのものの現象ではない。それは風の作用力によるものである。こうして風が吹くという相が現前し、風を証得すれば、木が揺れるという相は破られる。同様に、一切の相の中において金剛心と妙なる真如の性を証得することができ、それによって一切の相を破り、一切の相が非相であることを証得する。しかしこの金剛心は無相であり、妙なる真如の性もまた無相である。これが仏陀の説かれた「若し諸の相、相に非ざるを見れば、すなわち如来を見る」という深甚なる意味である。もし一切の相を一切の相のままに見るならば、それは肉眼の凡夫である。もし一切の相が一切の相でないと見るならば、是れを一切の相と名づけるが、それは聖賢の菩薩である。一切の相は仮に一切の相と名づけられているが、仮相は依然として存在し、虚妄の作用も依然として存在する。全てを完全に消し去ることはできない。故に一切の相は相に非ず、非相に非ず、四句を離れ、百非を絶つのである。
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