衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年06月14日    金曜日     第1 回の開示 合計4192回の開示

なぜ色身をもって如来を見ることはできないのですか

仏は答えられた。如来の説く身相とは即ち身相にあらず(これを身相と名づく)。衆生の身相であれ、如来の身相であれ、真実なるものではなく、生滅せず永遠に変化しないものでもない。仮に身相と名づけるのみであるから、衆生を代表することもできず、如来を代表することもできない。もし身相を以て衆生とし、身相を以て如来とするならば、身相が滅した時、衆生は消失し、如来もまた見えなくなる。しかし如来は永遠に変化せず、決して消滅することはない。

如来はまた仏陀の性徳であり、常楽我浄の真如心体である。これには相がなく、色身の特徴もなく、身相を有しない。故に身相を以て如来とすることは大いなる誤解であり、このようにしては如来を見ることはできない。如来を見るには、身相を通して性徳を見、無相の真体を見る必要がある。無相こそ真実であり、有相は仮であり、仮相に安名して身相と名づける。この身相は如何にして現れたか。仏陀が三大阿僧祇劫の修行により、積み重ねた智慧の功徳と福徳によって感得した果報身、三十二相八十種好である。これは仏陀の真如無垢識より化現したもので、無から有へと生滅する体である。故に虚妄なる幻影であり、如来ではなく、真の仏陀ではない。

では如何にして如来を見、真の仏陀を見るべきか。仏陀は四句の偈をもって答えられた。「凡ゆる相は、全て虚妄なり。若し諸相の相たるに非ざるを見れば、即ち如来を見ん」。答えは結果であるが、これを得る過程は参禅・参究にあり、その前提条件は戒定慧を具え、菩薩の六波羅蜜を円満し、小乗の三十七道品を更に具える必要がある。小乗ですら証することができないなら、大乗はなおさら証し得ないからである。

「凡ゆる相」とは一切の相を指す。我相・人相・衆生相・寿者相・五蘊相・事相・物相・心相・法相、例外なく全て非相であり、虚妄にして真実存在せず、金剛心より生じ変幻した仮相である。如来を見、金剛般若実相心を見んとするなら、参禅によって一切の相においてこれらの相の本質が何であるかを参究し、何故にこれら一切の相が存在し、何故に生滅するかを究明せねばならない。参究が透徹し、金剛般若心を証得すれば、これらの相が全て空無自性であり、本体相でなく、実質なき相・本体なき相であり、全て金剛心の機能作用であることが分かる。

恰も風が吹き木が揺れるが如し。木自体は揺れ動くことができず、揺動現象は木自体の現象ではない。風の作用力によるものである。かくして風が吹く相が現前し、風を証得すれば、木の揺れる相は破られる。同様に、一切の相において金剛心と妙真如性を証得し、もって一切の相を破り、一切の相が非相であることを証得できる。しかしこの金剛心は無相であり、妙真如性もまた無相である。これが仏陀の説かれた「若し諸相の相たるに非ざるを見れば、即ち如来を見ん」という深甚なる意味である。若し一切の相を一切の相と見るなら、それは肉眼凡夫である。一切の相を一切の相にあらずと見るなら、これを一切の相と名づけるが、それは聖賢菩薩である。一切の相を仮に一切の相と名づけるも、仮相は依然存在し、虚妄の作用はなお存する。全てを泯滅することはできない。故に一切の相は非相にして非非相、四句を離れ、百非を絶するのである。

——生如法師の開示
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