衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年06月13日    木曜日     第1 回の開示 合計4191回の開示

なぜ金剛経には菩薩が相に住せずに布施する福徳は不可思議であると説かれているのか

ここでいう「相」とは境界相を指し、色・声・香・味・触・法の六塵境界相である。菩薩が布施を行う時、色声香味触法の相に住することなく、また色声香味触法の相に執着せず、心を空じてこれらの相を離れる。布施の際には三輪体空となる。布施を受ける者の性別・年齢、尊卑貧富、権勢地位を分別せず、相貌を分別せず、怨みある者か親しい者かを分別せず、平等に施す。また布施が自らにもたらす利益を計算したり量ったりせず、色声香味触法や財色名食睡といった境界相の回報を期待せず、布施する品物の価値高低を考慮せず、必要とする者があれば無条件に布施し、分別計較を加えない。

一切の相を捨て去り、一切の相に執着せず、三輪体空の布施を成し得る者は、その心量広大にして既に凡人にあらず。心が空じた者は凡人ではなく、真の意味における大心の菩薩であり、甚深なる空相の智慧を具え、大福徳の者である。大布施を成した後、智慧と福徳は更に一層増進し、空慧の福は数量に制限されず、得る所の福徳は無量無辺にして不可思議である。心量の大きさに応じて得る福徳もまた大きく、福徳は心量と正比例し相補い合う。これに対し相に執着する布施者は、心が相に拘束され、心量は小さく、得る福徳も少ない。小さな器にどうして多くの物や大きな物を盛ることができようか。福は器に随って至り、大器には大福、小器には小福、これは必然の理である。故に菩薩は相に住せずして布施し、器量大きく心は虚空の如く、得る所の福徳もまた虚空の如く無量無辺、測り知ること能わざる所以である。

——生如法師の開示
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