ここでいう「相」とは境界相を指し、色・声・香・味・触・法の六塵境界相である。菩薩が布施を行う時、色声香味触法の相に住することなく、また色声香味触法の相に執着せず、心を空じてこれらの相を離れる。布施の際には三輪体空となる。布施を受ける者の性別・年齢、尊卑貧富、権勢地位を分別せず、相貌を分別せず、怨みある者か親しい者かを分別せず、平等に施す。また布施が自らにもたらす利益を計算したり量ったりせず、色声香味触法や財色名食睡といった境界相の回報を期待せず、布施する品物の価値高低を考慮せず、必要とする者があれば無条件に布施し、分別計較を加えない。
一切の相を捨て去り、一切の相に執着せず、三輪体空の布施を成し得る者は、その心量広大にして既に凡人にあらず。心が空じた者は凡人ではなく、真の意味における大心の菩薩であり、甚深なる空相の智慧を具え、大福徳の者である。大布施を成した後、智慧と福徳は更に一層増進し、空慧の福は数量に制限されず、得る所の福徳は無量無辺にして不可思議である。心量の大きさに応じて得る福徳もまた大きく、福徳は心量と正比例し相補い合う。これに対し相に執着する布施者は、心が相に拘束され、心量は小さく、得る福徳も少ない。小さな器にどうして多くの物や大きな物を盛ることができようか。福は器に随って至り、大器には大福、小器には小福、これは必然の理である。故に菩薩は相に住せずして布施し、器量大きく心は虚空の如く、得る所の福徳もまた虚空の如く無量無辺、測り知ること能わざる所以である。
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