衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年06月12日    水曜日     第1開示 合計4190開示

金剛経に説かれる四相における我相の特質

『円覚経』において世尊は微細なる我相についてこう述べられた:譬えば、ある人が全身の調和がとれ心地よく、四肢が弛緩し、身心が静寂極まりない状態にあり、忽然として身体の存在を忘れ、身体の在る方位すらも知覚しなくなる。この時、針でそっと身体を刺せば、直ちに痛みを感じ、無自覚に「私が痛い」と感じ、心の中に我相が現れる。衆生は無自覚に身体を我とし、覚知を我とし、五蘊を我とする。これが微細なる我相であり、衆生に普遍的に存在する。

『金剛経』で説かれる我相は、粗から細までを含み、特に粗重なる我相を主とする。比較的粗重から甚だしく粗重な我相まで、衆生は広く具足している。我見を断っていない凡夫に現れる我相は、時処を選ばず存在し、特に顕著であるにもかかわらず、彼らは自覚せず、覚醒していない。これは仏法を学ぶ者と学ばない者を問わない。仏法を学び修行する者の中にも、我見・我相は甚だ深刻であり、自我を顕示しようと、ややもすれば自らを非凡だと思い込み、他人より優れていると錯覚し、常に意図的か無意識かに自らが証果を得たとか明心したと誤解し、何の証拠もなく遍く宣伝し、他人の尊崇や特別な眼差しを得ようと望む。ついに他人を超え、ようやく胸を張れると思い込み、極めて自負・傲慢・尊大となり、眼中に人なしと化し、行為は邪悪となる。これらは全て我相を具足した現れであり、その中には人相・衆生相も存在する。人相・衆生相・寿者相があれば必ず我相があり、我相があれば必ず後の三相がある。四相は分離できない。

我相は多くの場合、人相と密接に結びついている。故に互いの比較や対比が生じ、嫉妬・競争・争い・論争、果ては様々な戦争さえも起こる。国家間の戦争は、個々の我相・人相が集合して集団的な我相・人相となり現出したものであり、各団体の競争や争いも同様である。小我が大我となり、我相は更に巨大化し、作用力も増大する。一見すると個々が無我であるかのように見えるが、実は全て我相である。

世俗界における我相は更に甚だしい。世人は一般に権勢・名利・身分・地位・名誉・階層・財産等の指標を以て我相とし、深く囚われ、執着して捨てず、虚偽の面目のため、人に一目置かせるためには、いかなる代償も厭わず、他人の視線や評価を極度に気にする。そして己が優位性や独自性を人に示すことに全力を尽くし、他人の羨望を得て自らの虚栄心を満たそうとする。こうした事例は枚挙に暇がなく、至る所に存在する故、敢えて例示はしない。この中には人相の参与があり、さもなければ他人の視線や評価を気にすることはない。我相がある故に、いわゆる「我」のために際限なく貪・瞋・痴を起こし、五欲の快楽を存分に享受し、六根と五官は一刻も休むことなく働いている。仮に眠りについたとしても、財・色・名誉・飲食を思い巡らす。凡夫はこのようにして一寸の高遠な志もなく、低次元の五欲に貪着し、金を稼ぎ享受することのみに終始するのである。

要するに、凡夫は我相を持つが故に、一切の身口意の行いは全て我相を中心に巡り、我相を余すところなく顕現している。もし我相がなければ、これほどの貪欲は生じず、生活は遥かに簡素となり、これほどの作為もなくなり、多くの事柄は自然に止息する。心なきところに事なく、欲なきところに求なし。身口意の行いは極めて控えめとなり、再び目立とうとしたり自我を顕示したり、自己中心に振る舞おうとはしなくなる。一個人の心中に我相があるか否かは、言行に無自覚に表れ、隠蔽できず、偽装も不可能である。なぜなら骨の髄まで染みついた習気は抑えきれないからである。

——生如法師の開示
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