衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2024年06月11日    火曜日     第1開示 合計4189開示

なぜ意根は言語や文字、音声に応じないのでしょうか

言語、文字、音声といった法の作用は、身根と身識を離れては存在せず、身識と意識が共同で作用した結果であり、五俱意識の機能的作用であります。言語と音声の発生は、まず意根が意を発して自らの考えや思想を表現しようとすることに始まります。意根が念を動かす際、脳波が波動し、その意図は中枢神経系を経て身根に対応するシステム、あるいは部位と呼ばれるものに伝達されます。すると丹田において風あるいは気流が生じ、この気流が上昇して舌根に到達する過程で音声流が現れ、言語と音声が形成されるのです。

従いまして、発話には気力が必要であり、気力が不足すれば声は微弱となるか、あるいは全く発声できなくなります。言語音声は意識と身識が共同で和合して作用した結果であり、身根の協力が必要です。この際、舌は身根の一部として機能し、触味塵に対する機能的作用は行いません。文字に関して、筆記やタイピングは意識と身識が和合して作用した結果であり、身根の協力を要します。独頭意識は心の中に音声を有し得、心の中に文字相が現れることもあります。独頭意識が内省する際には、自らの心声と文字相を知ることが可能です。

以上は六識における口行と意行、さらに身行に属します。身行は意識と五識が共同で和合して作用して初めて完成され、五根の協力が必要です。五根を離れては、身行の作用を完成させることはできません。六識による身口意行の造作は、意根によって促され、意根の意念の作用であります。意根は指揮官のようなものであり、六識は命令の執行者です。指揮官が意を動かし、脳波が伝達され、命令が発せられた後、全身の神経系が作動します。

意根の意は一種の信号あるいはコードのようなものであり、意識はその一部あるいは大部分を理解できますが、智慧が不足している場合は全てを理解することはできません。六識が命令を執行し、具体的に作用する際に初めて言語・文字・音声が現れます。これは操作システムの機能的作用です。指揮システムはコードの形式でのみ操作し、五根の協力を必要とせず、意根の意行は完了します。五根の協力がなければ、当然ながら文字・言語・音声が現れることはありません。

独頭意識が色身を離れるとき、五根の協力がないため、同様に文字・言語・音声は存在せず、話すことも書くこともできません。心念もまたコードや暗号に似たものですが、意識自身は完全に理解しています。理解した後、五根の協力があれば、文字・言語・音声として表現することが可能です。意識が意根の心念を理解するならば、同様に文字・言語・音声を用いて表現できます。従いまして、文字・言語・音声は心念を表現する道具であり、意根はこのように表現することはできず、意識と五識を通じてのみ表現します(神通を得ている場合は除きます)。

第八識のコード・暗号は、六七識が識を転じて智と成し、相当なる程度の道種智を具えたときに初めて理解できます。それ以前は、六七識とも解読することはできません。しかし第八識から与えられる福利待遇を享受することはでき、享受しながらもそのことに気づかず、自らの努力によって得た福利待遇であり、自らが天然に有すべきものだと思い込んでいます。コードは智慧によって解読される必要があり、智慧がなければ巧を弄して拙を成す結果となります。暗号やコードは全て比喩であり、心念の形式を説明するためのものであり、実際に暗号やコードが存在するわけではありません。

——生如法師の開示
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