衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年06月09日    日曜日     第1 回の開示 合計4188回の開示

金剛経における菩薩と非菩薩を見分ける基準

『金剛経』においては四相の有無をもって菩薩と非菩薩を判別する基準とされています。第三章で仏は次のように説かれました。「かくのごとく菩薩は無量無数無辺の衆生を滅度せしめながら、実には滅度せられたる衆生なし。なんとなれば、もし菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相あらば、すなわち菩薩にあらず」。これは菩薩が衆生を度した際、内心において「私が衆生を度した」「私がこのようなことをした」「私が苦労を払った」「私が衆生に利益を与えた」「私に功徳や福徳がある」と考えるならば、我相が現れるという意味です。これは凡夫の考え方であり、この者には我執があり、我見を断じていないため凡夫であって菩薩ではありません。

もしこの者が「これらの衆生はすべて私によって教化された」「あの衆生は皆仏法の利益を得た」「すべての衆生は私に感謝すべきだ」「私を敬い、報いるべきだ」「私の号令に従い、指導に服従すべきだ」と考えるならば、衆生相が現れます。これも凡夫の考え方であり、この者は凡夫であって菩薩ではありません。真の菩薩は内心において三輪体空であり、我相を離れ「私が衆生を度した」という執着がなく、恩を施したという感覚もありません。衆生相にも執着せず「確かに衆生が私に教化され、私の恩恵を受けた」という実体視もなく、衆生を度する過程における事業や功徳福徳にも執着しません。

衆生を度すことは度して度さず、菩薩はどれほどの事業を行っても内心は空寂であり、何もしていないかのようです。行った後は即座に放下し、常に心に留めて負担とすることなく、これをもって人を号令し操り、見返りを求めたりしません。あるいは世間的利益を得る手段として名声利養を求め、世間的尊勝を貪り「私が第一である」「私が唯一である」と常に我執に囚われ、私無しでは何事も成し得ないと考え、さらに非我の者を排斥するならば人相が現れ、さらに菩薩とは言えません。凡夫相に満ちた者は完全なる凡夫です。

ある者が菩薩か非菩薩かは、全ての言行によって現れます。内心の思想と外在の行為がその者の真実を物語ります。たとえ隠そうとしても完全には隠し切れません。内心の我は覆い隠すことができず、機会あれば必ず現れます。我見を断じていない者は経験不足のため判別が困難ですが、我見を断じた者には一瞬で看破され、経験者や明眼人を欺くことはできません。よって『楞厳経』が照魔鏡であると同様、『金剛経』もまた照魔鏡です。四相ある者は菩薩でも聖賢でもなく、四相なき者こそ真の菩薩・真の賢聖であり、これが最も基本的な判別基準です。

——生如法師の開示
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