衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年06月02日    日曜日     第1 回の開示 合計4184回の開示

意根と意識はなぜ互いに意思を通じ合わせることができるのでしょうか

例えば、意根が食事を欲すると、如来蔵は意根の意に従って意識を生じさせ、意根は意識に眼前の様々な料理を識別させる。それらの料理の中から自らが好むものを選択する際、意識は意根の心思を領会し、識別を終えた後は意根もまた意識の心思を領会する。両者は刹那的に相互に意思を通じ合わせる。しかし意根が前世の法を識別して意識に伝えても、意識はそれを領会できず、あるいは僅かに明らかにするのみであるのは何故か。前世の意識が経験しておらず、記憶も存在しないため、識別を加えることができないからである。

意根は各種の料理を識別してどれを食べるかを決定し、意識は意根に代わって識別を行うために生じる。意識が各料理の特徴を識別判断して意根に伝えると、意根はそれを了知して何を食べるかを決定する。あるいは意識が眼識と共に観察するだけでは完全に識別できない場合、意根は試食を決断し、舌識と鼻識が共に識別判断に参加する。意根が了知した後、どの料理が美味しく好みに合うかを知り、大いに食し、美味しくないものは顧みない。

これらの料理は意識と五識が共に現前に触れることができるため、受想思が生じ判断を加えられる。前世の法については、神通がなければ五識は全く触れることができず、意識も他心通がなく経験も不足し、智慧が足りないため、意根の心中に思惟する所を了知できない。もし意識が大智慧を具えれば、意根の心中に思惟し想い暗示する法を明瞭に識別できる。

意識と意根がなぜ互いに意思を伝達し合えるのか。意根が法塵に触れて意識を生じ、三者が再び和合して触れるためである。法塵については意根だけでなく意識も識別可能であり、差異は識別の程度と明瞭さにある。この過程において意識と意根は常に触れ合い、心と心が触れ合うため、当然相互に心思を了知し得る。差異は了知の程度にあり、深さと範囲の区別が存在する。意識が存在する限り、必ず意根と触れ合っているため、各自の心思は時と場所を選ばず伝達・交流される。交流が円滑でない場合は心理的齟齬が生じ、交流が順調であれば心情は愉快となる。これは二人の人間の交際関係に幾分類似している。

——生如法師の開示
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