衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年05月31日    金曜日     第1 回の開示 合計4183回の開示

意識は意根にとって何の役に立つのでしょうか

意識と五識および五蘊は、すべて意根が必ず使用すべき工具である。これらの工具がなければ、意根自身は世間において無力であり、六識と五蘊を用いて自らのために奉仕させ、六識と五蘊を利用して世間の一切の法を貪り取らねばならない。六識と五蘊がなければ意根は為す術もないのである。

ゆえに意根は多くの法を知り得るが、必ず意識がこれらの法を処理しなければならない。例えば周囲に鬼神が現れた場合、意根は非常に恐ろしく感じ、自らが脅かされると感じるが、自らでは鬼神に対処できず、単独で避けることもできない。そこで総毛立ちながら警戒し、意識にこの事を知らせる。意識は不思議に思い「いったいどうしたことか、なぜ恐怖を感じるのだろう?周囲に何か不気味なことがあるのか?」と考える。意識が聡明であれば考えて、周囲に鬼神がいることを知り得るだろう。そして避ける方法を考え出せば、こうして意根は目的を達成するのである。

よって意根に知性はあるものの、事柄を処理するには意識と五蘊が必要である。意根が法を証した後、身口意の清浄行は意識と五蘊が実践しなければならない。そうして六識の清浄なる身口意行は、意根の清浄さを体現する。しかし相当に高い次元まで修行が進み、四禅八定を修得し、無量の神通力を具えるに至れば、意根は六識に代わることができる。この境地に至れば六識を現前させずとも、一切の事を意根自らが処理でき、極めて迅速かつ円滑に事を運べる。故に意識の機能や地位は意根に比べるべくもなく、両者の関係は永遠に主従関係である。主人は使用人に雑事を処理させ、主人の能力が大いなる時には、全てが現代的なプログラムの如く、使用人を用いずとも自らが全てを巧みに処理し得るのである。

——生如法師の開示
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意根と意識はなぜ互いに意思を通じ合わせることができるのでしょうか

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