意識の五識と五陰は、全て意根が必ず用いなければならないツールである。これらのツールがなければ、意根自身は世の中で無力であり、六識と五陰を利用して自分に奉仕させ、六識と五陰を通じて世の中のあらゆる法を貪り取る必要がある。六識と五陰がなければ、意根は全くお手上げ状態となる。
故に意根は多くの法を知覚できるが、必ず意識がこれらの法を処理しなければならない。例えば周囲に鬼神が現れた場合、意根は非常に恐ろしく感じ、自分が脅かされることを恐れる。しかし自分では鬼神に対処できず、単独で逃げることもできない。そこで身の毛がよだつと同時に、意識が警戒してこの事態を認識する。意識は怪訝に思う「いったい何事か?なぜこんなに怖いのか?周囲が陰気臭く何かあるのか?」と。意識が明晰な時に考えれば、周囲に鬼神がいることを悟り、逃げる方法を思いつくだろう。こうして意根は目的を達成するのである。
故に意根は知覚を有するものの、事柄の処理には意識と五陰が必要である。意根が法を証得した後、身口意の清浄な行いを実践するには意識と五陰が求められる。六識の清浄な身口意行は、まさに意根の清浄さを体現する。しかし相当高い修行段階に至り、四禅八定を修得し無量の神通力を具えると、意根は六識に代わることが可能となる。この境地では六識を用いず、全ての事を意根自らが処理でき、極めて迅速且つ円滑に事を運ぶ。よって意識の機能や地位は意根に比べるべくもなく、両者の関係は永遠に主従関係である。主人は使用人に雑事を処理させ、主人の能力が強大化すれば、全てが現代的なプログラムとなり、使用人無しでも自らが巧妙に処理できるようになる。
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