衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年05月27日    月曜日     第1 回の開示 合計4181回の開示

身・口・意の行いは意識によって造作されるのか、それとも意根によって造作されるのか

身口意行はすべて意識によって造作されるものであり、意根の無明に駆り立てられて造作されるものである。意根に無明がなければ、意識に無明に染まった業を造作させることはない。これが十二因縁において説かれるところである:意根の無明が意根の思心所を生起させ、身口意行を造作しようとする選択を引き起こす。意根が選択した後に意識と五識が生じ、意根の心行と選択に沿った身口意行を造作する。この中で意根が主導的役割を果たし、意識はただ意根の調制に従っているに過ぎない。例えるなら、五歳の子供が醤油を買いに出かけるのは大人が指図するからであり、大人が家庭で衣食住を管理し、不足があれば子供に買いに行かせるようなものである。職員の仕事が上司によって割り当てられ、職員は上司の管理に従わなければならないようなものである。社会の各業種の活動が国家上層部の指導核心によって部署され、下部組織は上層指導部門の配置に基づいて業務を展開し、命令に背いてはならないようなものである。

衆生の身口意行は表面的には意識と五識によって造作されているように見えるが、実質的には意根の意志と主張を体現しており、意根の習気と習慣を表している。主従が調和して作用することで五陰身は協調するが、調和して作用しなければ意根が統合失調症を起こして崩壊し、精神疾患に至る可能性がある。もちろん時として意根が特定の法を理解していない場合、自らの主張を持たず意識の意見と見解に従うことがあり、時には盲目的に従うことさえある。意識が主張する内容の真意を十分に理解していない場合もあり、この時こそ意識の強さが顕れる。もし意根に智慧があれば、意識が意根を凌駕することはなく、常に意根自らが主導権を握って判断を下すのである。

——生如法師の開示
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