衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年05月25日    土曜日     第1 回の開示 合計4180回の開示

修行とは心の掃除です

独影境の顕現は、意根が法塵に攀縁し、法塵に作意した後に念が生じ、如来蔵が独頭意識を生じて意根の指令を完成させ、意根の念想を実現するためである。意根がどの法に作意するかによって、独頭意識はその法において出生し、その後意根の旨意に従って運行する。意識の念が生起して初めて知が生じ、知られる法とは情報に類似した法塵であり、五塵とは関係がない。それは思想観念か、あるいは憶想、未来への憧憬、問題に対する思惟分析判断かもしれない。意根が回想しようとすれば、意識は過去の人事を憶念し、意根が某の言葉の意味を知ろうとすれば、意識はその言葉を思惟分析し、意根が翌日の行程を考慮しようとすれば、意識は翌日の行程手配を思惟する。

独頭意識の念起は意根に牽引され、意根の念頭と思惟に随って生滅し動転する。例えば意根が人物を想起すれば、第八識は直ちにその人物に関連する法を現起させ、意根が触・思した後、検討したいと抉択すれば、独頭意識が出現してその人物に関連する法に作意し、触受想思する。これにより意根は知った後に決定を下し、その後独頭意識は更に深入りして運行を続けるか、あるいはこの法上で消失し、他の意根が攀縁する法上に現れる。

意根の種々の攀縁によって独頭意識の雑念が生じ、念頭が生起した最初の刹那には境が顕現せず、第一刹那に念起を知り、その後初めて境像が生じる。念起と顕境には過程が存在する。境界は元よりそこに存在するが、意識がなければ知ることができず、意識が出現する時、第一第二刹那の了別は不完全で不明瞭であり、第三第四刹那の了別によって法が比較的明瞭に顕現し、初めて結論を得て法的輪郭が現れ、その後思惟分析が生じて法を明確にする。

心中の雑念の大部分は過去に経験したもので、曾習境と呼ばれる。これにより意根が法に対し常に有意無意に執取し、慣性の力が強く、心が空ではなく、経験した一切の人事物を放捨できず、これらの法を心中に旋回させて捨てず、ちょうどゴミのように心間を埋め尽くし汚穢しているが、清掃することを知らない。修行とは常に心間の衛生を清掃し、大掃除大整理して心地の清浄を保ち、心室を光明清浄に保つことである。清掃作業は意識が引率督促し、意根が同意すれば、依然として意識が清掃し、献策と事務執行は全て意識が行い、意根はただ肯首下令決裁するだけでよい。

——生如法師の開示
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