独影境の顕現は、意根が法塵に攀縁し、法塵に作意した後に念が生じ、如来蔵が独頭意識を生起させて意根の指令を完遂し、意根の念想を実現することによる。意根がどの法に作意するかによって、独頭意識はその法において生じ、その後は意根の旨意に従って運行する。意識の念が生起して初めて知が生じるが、知られる法とは一種の情報に類似した法塵であり、五塵とは関係がない。それは一つの思想観念か、あるいは憶想か、未来への憧憬か、問題に対する思惟分析判断であるかもしれない。意根が想起を求めれば、意識は過去の人事物を憶念し、意根が特定の言葉の意味を知ろうとすれば、意識はその言葉を思惟分析し、意根が翌日の行程を考慮しようとすれば、意識は翌日の行程手配を思惟する。
独頭意識による念の生起は、意根の牽引によるものであり、意根の念頭や想法に随って生滅し動転する。例えば意根がある人物を想起すると、第八識は直ちにその人物に関連する法を現起させる。意根が触・思した後、検討したいという抉択を下すと、独頭意識が出現し、その人物に関連する法に作意し、触・受・想・思を行う。それによって意根は知った後に決定を下し、その後独頭意識は引き続き深く運行するか、あるいはこの法において消失し、他の意根が攀縁する法の上に出現する可能性がある。
意根の種々の攀縁によって独頭意識の雑念が生じるが、念頭が生じた直後の瞬間には境は顕現していない。最初の瞬間に念の生起を知り、その後で初めて境像が生じる。念の生起と境の顕現には一つの過程が存在する。境界は元々そこに存在するが、意識がなければ知ることができない。意識が出現する際、第一・第二刹那における了別は不完全で不明瞭であり、第三・第四刹那における了別によって法が比較的明瞭に顕現され、初めて結論が得られ、法の輪郭が現れる。その後さらに思惟分析が行われ、初めて法が明確になる。
心の中の雑念の大部分は過去に経験したものであり、これを曾習境と呼ぶ。これにより意根は法に対して常に有意無意に執取しており、慣性の力が強く、心が空ではなく、経験した一切の人事物を放つことができず、これらの法を全て心中に旋回させて捨てようとせず、あたかもゴミのように心の間に堆積させ、汚穢で不浄であるにもかかわらず、一度も清掃したことがない。修行とは常に心の中の衛生を清掃すること、大掃除・大整理を行い、心の地を清浄に保つことである。そうして初めて心室は光明清浄となる。清掃は意識が主導し督促し、意根が同意すれば、依然として意識が清掃を行う。献策と事務執行は全て意識が担当し、意根はただ肯いて指令を下し決裁するだけでよい。
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