昨夜、楞厳呪を読誦していた際、師父の法義に木魚を叩きながら読むことができると記されているのを思い出し、私はペンで机を叩きながら読誦した。最初は普段通りであったが、数分経つと、自分の発音やリズム、声調が日常とは全く異なり、まるで自分が読んでいるのではないかのように感じた。これらの変化は意識的に制御したものではなく、自動的に現れたかのようであった。その時、自身の意識が非常に微細になり、目を開けているのもやっとで、辛うじて文字が認識できる程度であった。しかし読誦は極めて滑らかで速く、その韻律は詠唱のようであった。読誦を終えた後も意識は依然として微細で、机に手をかけながらようやくベッドに横たわった。しばらく休んで初めて意識は正常に戻った。
評:これはまさに諸仏菩薩の加持力であり、不可思議である。本来、読誦や音声は意識の所為であるが、この時は自身の意識が何も為さず、無力であった。すなわちこの読誦は意識が主導する行為ではなく、第一に諸仏菩薩あるいは護法神によって摂持・加持されて現れたもの、第二に自身の意根によって調整され、意根が主導した読誦、つまり意根自身による読誦である。第一点は理解しやすいが、第二点はどう理解すべきか? なぜ意根が意識を制御し、さらには意識による読誦に取って代わったのか? ここには禅定の力が関わっており、加持力が確かに作用していることは言うまでもないが、一旦それは措く。意根が楞厳呪の重要性を認識し、意識の読誦に参与し、しかも非常に熟達したため、自発的に読誦を行い、意識に取って代わり、意識は無力化したのである。これは軽微な念呪三昧の状態であり、さらに深い三昧も現れ得る。この後の修行は非常に速やかに順調に進むであろう。三昧が現れたことにより、意根が自ら実践に臨み、楞厳呪の暗誦は極めて容易になる。意識による思い出しや回想を必要とせず、意識がわずかに参与するだけで足りる。
もし実際の事例が示されなければ、普通の人々は信じないであろう。また「意根がどうして読誦や暗唱などできようか?全くのでたらめだ」と言う者もいるであろう。では、暗誦と三昧の根本的な原理とは何か? 暗誦と三昧とはすなわち意根の所為であり、意根の主導によるものであって、他に原因はない。なぜなら意識は明らかに無力で制御不能、何が起こっているか理解できず、文字すらはっきり見えず認識できない状態であるのに、どうして読誦できようか?
このような境界は、私がかつて楞厳経の読誦期間に楞厳経を念じていた時の状態と全く同じである。当時、私は非常に速く念誦していたため、思惟する必要がなく、念じ続けるうちに目は経文の文字を見ることができなくなった。しかし口は極めて速く念誦を続け、他の者は全く付いていけなかった。これは暗誦と呼ぶ方がより正確であろう。その時、心は虚空のように静寂で水のごとく動かず、まるで入定したかのようであった。ただ木魚が止まらぬこと、経文が終わらぬこと、念経が永遠に続き止まらぬことを願った。それ以来、私は特に暗記しようとしなくても自然に楞厳経を暗誦できるようになった。
ここから見て取れるのは、楞厳経・楞厳呪および大乗経典を受持読誦することに対する諸仏菩薩の加持力がいかに大きいか、その感応がいかに殊勝か、修行の進歩がいかに速やかであるかということである。楞厳呪の読誦・暗誦の功徳は不可思議であり、その功徳利益は楞厳経第七巻に詳述されている。修行がまだ正軌に乗っていない方々が発心して楞厳呪を修め、楞厳呪を良く用いて道業の進歩を促進されることを願う。
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