衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年05月23日    木曜日     第1 回の開示 合計4179回の開示

安らかに楞厳咒を読誦する実体験

昨夜、楞厳咒を読誦していた際、師父の法義に木魚を叩きながら読むことができるとあったので、筆で机を叩きながら読んでみました。最初は普通でしたが、数分経つと自身の発音・リズム・声調が普段と全く異なり、まるで自分が読んでいるのではないかのようでした。これらの変化は意識で制御したものではなく、自然に現れたものでした。その時は意識が非常に微弱で、目もほとんど開けられず、辛うじて文字が見える状態でした。しかし読誦は滑らかで速く、旋律は詠唱のようでした。読誦後も意識は依然として弱く、机に掴まりながらようやく床に横たわりました。暫く休んでから、意識が正常に戻りました。

評:これこそ諸仏菩薩の加持力の不可思議さです。本来、読誦や音声は意識の作用ですが、この時自身の意識は何もできず無力でした。つまりこの読誦は意識が主導する行為ではなく、第一に諸仏菩薩や護法神の摂受加持によって現れ、第二に自身の意根が調制し主導した読誦、つまり意根自体の読誦です。第一点は理解しやすいですが、第二点はどう解釈すべきでしょうか。なぜ意根が意識を制御し、代わりに読誦したのか。これは禅定の力に関わります。加持力は確かに存在しますが、一旦それは措くとして、意根が楞厳咒の重要性を認識し意識の読誦に参与し、熟達したため自主的に読誦し意識に取って代わったのです。これは軽微な念咒三昧の状態であり、更に深い三昧も現れ、後の修行は急速に進展します。三昧が現れると意根自らが楞厳咒を暗誦することが容易になり、意識の回想を必要とせず、僅かな参与で足ります。

実際の事例がなければ、普通の人々は信じないでしょう。「意根がどうして読誦や暗誦ができるのか?荒唐無稽だ」と言う者もいるでしょう。では暗誦と三昧の原理とは何か。それらは意根の働きによるものであり、他に理由はありません。意識が明らかに無力で制御できず、文字さえ見えなくなった状態で、どうして読誦できるのでしょうか。

この境地は私が楞厳経を読誦していた当時の状態と全く同じです。当時は極めて速く読誦し、思惟することなく、読むうちに経文の文字が見えなくなりましたが、口からは非常に速い読誦が続き、他人は付いていけませんでした。これは正確には暗誦と呼ぶべき状態でした。その時心は虚空のように静寂で水の如く動かず、入定したかのようでした。ただ木魚が止まらず、経文が終わらず、永遠に読経が続くことを願ったものです。以来私は特に努力せずとも楞厳経を暗誦できるようになりました。

これにより、楞厳経・楞厳咒や大乗経典を受持読誦する際の諸仏菩薩の加持力の偉大さ、感応の殊勝さ、修行の進歩の速さが分かります。楞厳咒読誦の功徳は不可思議であり、その利益は楞厳経第七巻に詳述されています。修行が正軌に乗っていない方々が楞厳咒を修し、活用して道業を進められることを願います。

——生如法師の開示
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