仏法をゆっくりと味わう場合、あるいは深く参究すると言いますが、一つの言葉を深く参究すれば入定することができ、これを慧をもって定を引くと言います。定の中では、参究する智慧が絶えず深まり、法の義理が次第に透徹していきます。これをまた定をもって慧を引くと言います。定と慧が互いに引き合い増大する、これが真の修行であり、最も深遠な修行、最も根本的な修行、そして最も究竟なる修行です。得られるのは真の智慧、自ら修めて得た智慧です。ただこのような参究は表面的には遅く見え、得られる知識量が少ないように思われますが、実は修行において最も速く、最も直接的な直道です。修行は智慧を得ることが究竟であるため、智慧が仏となります。
逆に、修行を理解しない者は浅薄で、表面的な知識量を追求し、多くを知り、多くを理解し、多くを学ぶことに満足し、真の智慧の重要性を悟りません。そのため真の智慧を求めようとしません。量と速度を追求するため、学び得たものは自らが開いた真の智慧ではなく、実は修行の門外漢です。精進に励んでいるように見えますが、真の智慧がないため実際には最も遅い速度です。多くを知り多くを解することが智慧だと考えるのは、実は仏法を学び始めた者の無知です。
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