衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年04月10日    水曜日     第1 回の開示 合計4157回の開示

幻法に執着するは幻中の幻、夢中に夢を説くは夢中の夢

六塵縁影は鏡に映る像の如し。我々が見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの、想うもの、為すもの、これら全ては鏡の中の影に過ぎない。鏡の影を見る時、その影に対していかなる感想を抱き、いかなる考えを巡らせ、いかに造作を加えようとも、結局のところ影は影であって実体ではない。我々が分別するのは鏡の中の影に過ぎず、この影は善くあの影は悪しと、絶え間なく執着し掴取しようとするが、いずれにせよ真実のものを得ることはない。全ては影であり、実体としての作用を持たず、結果も過程も皆空である。川面に映る樹影のように、いかに賞賛し執着しようとも、それは実在しない。川の月を猿が必死に掬おうとも、ついに一片も得られないが如し。川の中に真実の月など存在しないからである。

我々が触れる一切の境界もまた然り。あたかも何かを享受しているかの如くであるが、実は何も得ておらず、全て影との戯れである。意根が六識を指揮し、絶えず作意し、触れ、受け、想い、執着するが、実は何も掴み得ていない。影との戯れに過ぎず、己すらも影の一つ。幻法が幻法に対すれど、何ら真実があると言えようか。しかし我々はこの幻境から脱出できず、事実の真相を知ることができない。薄福と愚痴の故である。諸仏は衆生を憐れみ、種々の譬喩をもって教化し、戒定慧を修めさせ、遮障を除き、事実を悟らしめる。この世に実に一法も得るものなく、心を息ませ妄想を除く時、真実相が見える。衆生が仏語に依り真に修行する時、初めて影を見極め、自性に回帰し解脱を得るのである。


——生如法師の開示
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