壇経の中で六祖は述べています:一切の諸法が無常であるならば、万物万物皆自性を持ち、生死を容受し、真常性には不遍之处が存在します。故に、吾が常を説くことは、仏が真無常の義理を説くことに正しく符合します。
自性は一切の法を生じました。一切の法の本质も自性であり、自性は常である。故に一切の法は自性に依存して説くならば、即ち常となります。もし一切の法が無常であれば、一切には自体性が存在し、自生自滅が可能となります。それらは自性によって出生されたものではなく、自性を用いて出生する必要もなく、自性には不遍之处が存在します。しかし、これは不可能であり、故に一切の法は自性に依存して説くならば、皆真如自性の常性となります。もし一法が無常であれば、その法には自体性が存在し、自体性がある故に生死の説があり、真如豈有不遍之处が存在し、出生できない法が存在することとなります。
一切の諸法は真如自性に依存して説くならば、皆真如性であり、不生不滅となります。これらの法は皆真如自性によって生じられ、真如性を具えている故に、一切の法も常存不滅となります。只要真如自性が存在すれば、总に一切の法が出現します。もし一切の法が無常であれば、滅了后再生できず、不能出生することは真如自性が作用不起し、法を生じることができないとなり、即ち真如自性には不遍之处が存在します。しかし、これは不可能であり、真如自性は一切处に遍し、一切处一切法皆真如自性であり、一切法存在すれば真如自性存在します。況且、真如中には本来的种子不生不滅、永遠长存し、只要缘に遇すれば、一切の法を生じます。
六祖の説く意味は、一切の諸法が無常であるならば、一切の事物皆自体性を持ち、これらの事物は自生自滅、生滅不息することができ、それらは真如自性を用いて出生する必要なく、自性には不普遍之处が存在し、経義に违背します。故に六祖が説く一切の諸法は常であることは、仏が説く真実の無常の義理に正しく符合します。一切の諸法は常であることは、一切の諸法皆自性によって生じられ所显されることを表明し、故に一切の法には自体性が存在せず、即ち無常となります。
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