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日常法話

2024年03月03日    日曜日     第1開示 合計4134開示

一切法は皆菩提にして二相なし

楞厳経原文:仏は文殊及び諸大衆に告げたまわく。十方の如来及び大菩薩は、その自ら住する三摩地の中において、見と見縁、並びに所想相は、虚空華の如く、本より所有無し。この見及び縁は、元は菩提の妙浄明体なり。云何ぞ中に是と非是と有らんや。

釈:仏は文殊及び諸大衆に告げたまわく:十方の如来及び登地の大菩薩たちは、彼ら自身が住する深甚なる三摩地の中において、諸法を見る見性、及びこの見性が依託する縁、並びに彼らの相、心中に顕現する一切の六塵法相は、悉く虚空の華の如く、本来は如何なる世俗法相も無い。この見性及び見性を生じる縁は、本来より菩提の妙浄明体なり、どうしてこの一切法相の中に、是れ菩提と非れ菩提というような二相を生ずることがあろうか。

ここに更に説明を要するのは、諸仏菩薩は常に各自の三摩地の中に在り、この三摩地は禅定に唯識種智を加えた定慧等持の境界であり、智慧足らざる者は推測すること能わず。三摩地の中に在る諸仏菩薩も法を見る、世俗界の六塵境界を見るが、これは七識虚妄心の見であり、仏性の見では無い。当然ながら七識の見も仏性の見無くしては成立せず、そうでなければ見ることは出来ない。而して七識の見も、種々の縁によって初めて現れるものであり、縁無くして見有ること無し。縁に依存して生じる見は、当然に虚妄不実の見である。

諸仏菩薩は六塵法相を見た後、心中には法相の影像が呈される、これは見の対象と結果であり、五蘊の中の想蘊の功能作用である。各種の法相に対する認知と確認である。仏は諸仏菩薩の七識の見性、及び見性を生じる縁、並びに心中に呈される法相、この三者は悉く虚空の華の如く、本来存在せず、この見・縁・相という三者の世俗相は無いと説きたもう。ではこの見性と縁は一体何か。明らかに存在するのに、無いと言う。仏はこれが本来清浄なる微妙なる明浄なる菩提の本心であり、また真心自性とも呼び、如来蔵とも呼ぶと説きたもう。どうして見と縁が菩提自性そのものである、或いは菩提自性そのものでは無いと言えようか。

譬えば黄金が金器に打ち造られ、金の皿、金の碗、金の腕輪となっても、これらの金器が黄金では無いとは言えず、またこれらの金器が即ち黄金そのものであるとも言えない。畢竟、黄金が形を変え、世俗的用途を得たのである。しかしそうであっても、金器にも黄金の価値と影は存在する。而して凡夫は完全に金器を俗物と見做し、皿や碗や腕輪の功能作用に執着し、日々金の碗を持って施しを乞い、飯を盛り、食べることに専念し、碗の世俗的用途を捨てようとしない。ここに至って黄金は完全に俗物と見做され、黄金自体の価値は覆い隠される。黄金自体の価値が一旦覆われれば、所有者は大富長者から乞食の乞食となり、流離失所、窮乏困窮し、悲苦交々となる。金碗を捧げながら路頭に餓死するとは、何と不幸なことか、何と愚かなことか。凡夫が一旦慧眼・法眼・仏眼を開き、金を識れば、即時にして凡夫より仏菩薩本尊に回帰する。では我々は如何に禅を参じ実相を参ずべきか、是否すべて了然たるであろうか。

原文:文殊よ、吾今汝に問う。汝が文殊の如く、更に文殊有りて是れ文殊なるものは為るや、或いは文殊無きか。文殊菩薩は答えました:かくの如し、世尊、我こそ真の文殊にて、是れ文殊なる文殊は無し。何を以っての故か。若し是るもの有らば、則ち二文殊となるべし。然るに我が今日、文殊無きに非ず、中に実に是と非の二相無し。

釈:文殊よ、私は今お前に尋ねる、お前文殊を例にとれば、もう一人別の文殊が文殊本尊であるというのか、それとも別に文殊本尊となる文殊はいないのか。文殊菩薩は答えました:その通りです、世尊、私こそが真の文殊であり、別に文殊である文殊は存在しません。何故そう言えるのでしょうか。もし別に文殊である者がいれば、二人の文殊が存在することになるからです。しかし私は今、文殊本尊たる文殊がいないわけではありません、この事柄の中には、確かに「是」と「非」という二つの法相は存在しないのです。

文殊本尊がどうして是と非の二相を生じることがあろうか。文殊は即ち文殊であり、別に是と非は無い、これは偽命題であり、戯論である。同じく、一切の法は悉く菩提であり、別に是と非の二相は無い、全体即ち真如なり。この理を証得すれば、即ち三界本尊の身分に回帰し、最早乞食の乞食では無くなる。一切衆生は速やかに目の塵を払い、厚き目隠しの布を取り除き、宝蔵を識取して自性の家園に回帰せよ。

——生如法師の開示
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