楞厳経原文:仏は文殊及び諸大衆に告げたまわく。十方如来及び大菩薩は。その自ら住する三摩地の中に於いて。見と見縁と。並びに所想の相と。虚空華の如し。本より所有無し。この見及び縁は。元は菩提の妙浄明体なり。云何ぞ中に是と是ならざる有らんや。
釈:仏は文殊及び諸大衆に説きたまう。十方如来及び登地の大菩薩たちは、彼らが自ら住する深甚なる三摩地の中において、諸法を見る見性と、この見性が依拠する縁、および彼らの相、心に現れる一切の六塵法相は、虚空の華の如く、本来何らの世俗法相もない。この見性および見性を生じる縁は、本来菩提の妙浄明体である。どうしてこの一切法相の中に、是菩提と非菩提という二相を生ずることがあろうか。
ここにさらに説明を要するは、諸仏菩薩は常に各自の三摩地に住しており、この三摩地は禅定に唯識種智を加えた定慧等持の境界であり、智慧不足の者は推測すべからざるものである。三摩地にある諸仏菩薩も法を見、世俗界の六塵境界を見るが、これは第七識の虚妄の心の見であって、仏性の見ではない。ただし第七識の見も仏性の見に離れず、さもなくば見ることはできない。そして第七識の見は、種々の縁によって初めて現れるものであり、縁無くして見有らず。縁に依って生じた見は、当然虚妄不実の見である。
諸仏菩薩は六塵法相を見た後、心の中に法相の影像を現す。これは見の対象と結果であり、五蘊中の想蘊の機能作用であって、各種の法相を認知し確認するものである。仏の説くところによれば、諸仏菩薩の第七識の見性と、見性を生じる縁、および心に現れる法相、この三者は虚空の華の如く、本来存在せず、この見・縁・相の三者の世俗相はない。ではこの見性と縁とは何か。明らかに存在するのに無いというのは、仏が説くところによれば、これこそが本来清浄なる微妙明浄の菩提本心、すなわち真心自性、また如来蔵と呼ばれるものである。どうして見と縁が菩提自性そのものであるとか、菩提自性そのものではないなどと言えようか。
例えれば黄金を金器に打ち成す場合、金の皿・金の碗・金の腕輪は、これらの金器を黄金でないとは言えず、またこれらの金器が黄金そのものとも言えない。畢竟黄金が形を変え、俗用を得たものではあるが、それでも金器には黄金の価値と影がある。しかし凡夫は金器を完全に俗物と見做し、皿や碗や腕輪の機能作用に執着し、日々金の碗で飯を乞い、飯を盛り、飯を食らい、碗の俗用を捨てようとしない。ここに至って黄金は完全に俗物と見做され、黄金本来の価値を覆い隠す。黄金本来の価値が一旦覆われれば、所有者は大富長者から乞食に転落し、流浪困窮し、悲苦に苛まれる。金碗を捧げながら路上で餓死するとは、何と不幸で愚痴なことか。凡夫が一旦慧眼・法眼・仏眼を開き、金を識得すれば、即時にして凡夫より仏菩薩本尊に回帰する。では我々は如何に参禅し実相を参ずべきか、これに皆了承したであろうか。
原文:文殊よ、吾今汝に問わん。汝が文殊の如き者に、更に文殊有りて文殊たる者は為(あり)や、或いは文殊無きか。かくの如く世尊。我は真の文殊なり。是の文殊無し。何を以っての故にか。若し是の者有らば、則ち二文殊なり。然るに我が今日、文殊無きに非ず、中に実に是と非との二相無し。
釈:文殊よ、私は今お前に問う。お前文殊を例にとれば、更に別の文殊が文殊本尊であるということがあるのか、あるいはそのような文殊は存在しないのか。文殊菩薩は答えていう。その通りです、世尊。私は真実の文殊です。別に文殊であるという文殊は存在しません。なぜなら、もし別の文殊が存在するなら、二人の文殊が存在することになります。しかし私は今、文殊本尊でないわけではありませんが、この事柄の中には真実として是と非の二相は存在しません。
文殊本尊がどうして是と非の二相を生じようか。文殊は文殊そのものであり、別に是も非もない。これは偽命題であり戯論である。同理、一切法は全て菩提であり、別に是と非の二相はない。全体即真如なり、この理を証得すれば、即ち三界本尊の身分に回帰し、もはや乞食ではない。一切衆生は早く眼の塵を拭い、厚き目隠し布を取り除き、宝を識取して自性の家園に回帰せよ。
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