惟如の観行日誌(24年02月28日)
最近数日、身体的反応が特に顕著で、食事量が減る一方で空腹感を覚えず、頭頂部に脹れと痒みを感じ、掻くと激痛が走ります。眉間と頭頂部は張り詰めたような緊張感に包まれ、額は火照りで目を開けるのも辛く、物を見ると極度の疲労を覚えます。外出や用事、人に会うことを避けがちになり、周囲の呼び掛けに反応できず、度々聞き間違いや誤動作を繰り返し、頭が真っ白で制御不能な状態が続いています。
この頃は何事をするにも無意識に忘れがちで、歩行中に信号待ちで心を落ち着かせた瞬間、思考が空白化し呆然自失。自分が何をしているのか分からず、夢遊病者のように頭と身体が制御不能で鈍重です。時々楞厳咒を唱えて症状を緩和すると、周囲の人々や建物、車が果てしないスクリーン上の映像のように非現実的に映ります。現在は額と眉間の緊張と熱感が続いており、座禅で目を閉じると幾分楽になります。観行法義に取り組む際は頭が清浊で雑念が生じず、家族との会話さえも労力を要します。
以前師公が観行法義を説かれた際は理解不能でしたが、今は禅定を得て四念処を観行する中で、自性の妙用が徐々に理解できるようになりました。衆生の五蘊身と十八界という道具を観察する行為を通じ、自性が妙用を顕現する機能を発見できます。「念仏する者は誰か」「屍を引き摺る者は誰か」などの話頭に対し、深く細やかに疑情を起こす思考が可能になり、内面にストレス反応が生じて自然に涙が溢れます。従来の仏法学習は単なる意識的思考に留まり、聞き考え見るだけの無感覚なものでしたが、禅定を得た今の思索は全く異なり、心に強く響きます。この身体がまさに死屍であり、生々世々の六道輪廻において衣替えのように身体を替えることを深く自覚し、今や人事物への興味を失い、是非善悪の分別を好まず、常に観行法義に没頭しています。
講評:これは見道以前の身心転換過程であり、凡夫の身心を脱し聖賢の境界に漸次対応する脱胎換骨の段階です。現在は初果向のレベルにあり、この修行過程は必須です。身心転換を経なければ永遠に凡夫のままで意識境界に留まり、意根が熏習を受けません。身体の変化は禅定によって引き起こされ、心がある程度静まると全身の気血が貫通充実し、旧来の業障身が置換されます。
心の転換は次第に世間法と共振しなくなり、人間界の境界相への興味を失い、空と無我に相応して凡夫の胎を脱し、凡夫の骨を換えます。我見断ちは時間の問題です。智慧において小乗法で成果を得るだけでなく、大乗法でも大きな進展があり、自性法に対する現観能力が芽生え、意識的情思意解の成分が一切なく心中の光明が増大しています。この状態で我見を断った後、専一に参禅すれば明心も目前です。
惟如の身心状態から、小乗法の修行が四加行の暖法修行段階を過ぎ、頂法修行段階を経て忍法修行段階に達し、忍法善根を具えていることが分かります。今後世第一法段階を経て我見を断ち初果を証得するでしょう。大乗法の修行では四加行中の暖法修行段階に達し、暖法善根を有しています。小乗で我見を断った後、大乗の四加行修行は自然に進展し、今生での明心が期待できます。これら真実の修行から見るに、惟如の全身心境界に貪瞋痴の煩悩が現れているでしょうか。五蘊世間への執着と貪恋はあるでしょうか。世間五欲享楽への兆候は微塵もない。故に実修すれば禅定、特に未到地定が現れることで煩悩を降伏させ、最も粗大な貪欲を断じ、人間界と天界への貪りを断てば、それが即ち初禅定です。証果後に初禅定が現れれば三果証得の可能性が十分あります。真に発心して修行すれば、成就は困難ではなく、世智弁聡に頼る必要もありません。
着実に功夫を積む者こそ、往々にして表面上聡明ではなく、饒舌でも自己顕示欲もなく、外見は愚鈍に見えても実直勤勉が最大の強みとなり、真実不虚の利益を得ます。これに比し、初果二果を自称する者たちに、このような修行過程があるでしょうか。殆ど皆無で身心世界に変化なく旧態依然、禅定なき所謂智慧は全て意識の知見であり、意根の内面に透徹せず、煩悩を具足したまま口先だけの存在です。
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