衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年02月26日    月曜日     第1 回の開示 合計4130回の開示

最も確実で信頼できる修行の法門

問:我見を断じて証果を修めることで輪廻から脱する確証を得るのか、それとも念仏を唱えて極楽浄土に往生する方が生死輪廌から脱する確証があるのか。一本万利で相対的に安定した法門は存在するのでしょうか。

答:あなたの問いの核心は二点です。第一に、如何にして確実に輪廌から解脱を得るか。第二に、浄土念仏の修行は我見を断つより迅速で安定しているか。申し上げます。生死輪廌から解脱する最も確実な方法は、今この時に聖賢と同等の徳能を具現し、身心世界を聖賢の如くすることです。単に知見や見地において聖賢と等しいだけでなく、禅定や神通、品徳修養や心性、心量や願力、発心、慈悲喜捨の四無量心においても聖賢と等しくなければなりません。要するに、あらゆる面で聖賢と等しくなって初めて、聖賢の如く解脱自在となり、寂静涅槃に入り、業力の拘束を受けなくなるのです。この見解にご賛同いただけますか。

四聖諦の理念は衆生に娑婆世界の五蘊世間を看破させ、娑婆世界の様々な縁を放下させ、一心に念仏して極楽を求め、心を浄土に相応させることで往生を容易にします。初果向や初果を得れば、極楽往生は更に確実となります。四聖諦の理がなければ、念仏は心ここにあらずで、娑婆世界の因縁に囚われ、貴重な時間を空費するだけです。故に四聖諦の修行と念仏は矛盾せず、相互に融合し促進し合うのです。

証果と明心は、共に凡夫の生死輪廌から脱した境地を示し、この境地に至れば徳行と徳能が共に高深となります。この高深な徳行徳能を「我見を断つ証果」「明心見性」「初果須陀洹から四果阿羅漢」「三賢位の菩薩」「初地から八地の菩薩」などと名付け定義します。仮に名称や定義がなくとも、これらの徳能徳行を具備すれば解脱を得て、凡夫の生死輪廌から脱するのです。故に衆生は如何なる修行をしようと、この境地に達すれば十分です。身心世界を八度も数段階も向上させれば、その者の境界は即時に解脱の境地となります。身心世界を変革することが根本であり、自身の徳能を向上させることが根本です。他のものは全て付随品に過ぎません。自身の徳能を向上させず、身心世界を変革できなければ、付随品だけに執着しても何の役に立つでしょう。最も確実で信頼できる修行法門が何か、お分かりでしょう。

あらゆる果報の現出は如来蔵によって実現されます。如来蔵は何に基づいてこれらの果報を現すのか。修行者の心、心行と身口意の行いに基づきます。心行が至らなければ、身口意の行いが至らなければ、如来蔵は如何なる果報も現出できません。どうして初果から四果、三賢位や入地の菩薩が現れようか。如何にして極楽浄土に往生できようか。これらの果報は個人の定義や取捨に依らず、如来蔵が現出するものが真実不虚なのです。故に果報に関する議論や計算より、足を地に付け理法に適った修行を実践する方が遥かに有意義です。

——生如法師の開示
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