少し善行を施すやいなや、雄鶏のようにコケコッコーと鳴き立てる者がおりますが、それでは陰徳などあるはずがございましょうか。功徳と称するに足るものがありましょうや。仮に他人を利することができたとしても、たとえ人を笑顔にさせた程度のことであれ、些細な利益をもたらしたにすぎぬならば、公にすべきことではございません。一旦公開してしまえば、善報は即座に消え去り、後世におけるより大きな善果を得る機を失うことになります。これは陰徳が消滅することを意味します。陰徳とは後世に受ける善報でございます。ただ他人の模範となり、人々を善行に導くためであれば、自らの善行を公にするのもやむを得ませぬ。
一方、何事も始めてもいないのに、拡声器で広め回り、他人の羨望や恭敬、賞賛、追従を前借りして享受する者がおります。これは高利貸しの如く前借り消費する行為に等しく、極めて非賢明でございます。何故このようなことが起こるのでしょうか。深刻なる我見が存在するからこそ、虚栄心が昂じ、他人の注目を集めんとし、自己と他人、及びその事績や功労などを実体あるものと執着するのでございます。我と我見の現れを弁えれば、他人が身口意の三業を現じた瞬間、その者の我見の深浅を見抜き、我見を断じたか否か、断じるまでどれほどあるかを判別できます。これにより聖人を騙る者たちは隠れ場所を失い、誰人あえて娑婆世界にて詐偽を働くことができましょうか。
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