無生法は、五蘊の無我のみならず、さらに微細な法無我を含んでいます。法無我を忍可することは大いなる智慧であり、無生法忍と呼ばれます。無生法忍は一切法の唯識性と真如性を証得する智慧の境地であり、真如三昧の境地でもあります。これは三賢位を超え、一真法界を分証し、唯識種智を具え、初地以上の唯識階位に入ったことを意味します。
大乗仏教において三賢位の段階では、禅宗の三関を突破し、陽炎観や夢幻観といった智慧の境地を証得しなければなりません。般若の理に対する実証は次第に深微となり、智慧の次元が一定の深さに達すると、一分の唯識種智が具わり、初地に入って一分の無生法忍を獲得します。この時証得するものは何か。それは真如であり、一切法に一分の真如性が存在することを証得するのです。これを分証と呼び、分証即仏とも、法身の分証とも、あるいは無生法忍の分証とも称されます。
「無生」の意味と「忍」の意味は既に理解していますが、「法」の概念については、その範囲が五蘊よりも深微かつ広大であることを指摘しておきます。これには世間の一切の事象、理法、観念、概念が含まれ、総じて色法と心法を指します。五蘊にも色法と心法がありますが、その範囲は狭く次元も浅く、得られる智慧は諸法無生の無生法忍の智慧に比べて劣ります。無生法忍の智慧は一切種智あるいは唯識種智とも呼ばれ、一切種智が円満すれば、それが仏の一切智となります。
5
+1