居士が尋ねました:「師匠、如来蔵を悟り証得した時に生じた総相智で如来蔵を観察する場合、どの範囲まで観察できるのでしょうか?」私は答えました:「この範囲は悟り始めた当初はさほど広くなく、観察も普遍的ではありません。五蘊の単純な働きの中での範囲であり、比較的粗雑です。複雑な働きの中では如来蔵を観察することは困難です。特に色蘊と行蘊が主で、受蘊・想蘊・識蘊は多少観察できますが深くはありません。色蘊と行蘊は顕著で観察しやすく、受蘊でも大まかに観察できますが、想蘊と識蘊では観察が困難で、全て大まかな観察にとどまり、細部まで深く観察することはできません」
しかしこの観察は現量の観察、つまり眼前の観察です。五蘊が働いているまさにその瞬間に、見れば見え、見なければ見えない。一瞬の思考に陥ることなく、言語文字や音声が現れることもなく、思考・分析・推量の相に入りません。一旦思考に陥れば、それは現量の眼前観察ではなくなります。参究中に言語文字や音声が現れたら、それは禅定が不足しており、意識の情思意解が優勢になり、意根の機能が弱まっている証拠で、現量の智慧ではありません。現量とは必ず意根が直に現場を観察し発見・証見するもので、意識の脳内思考や補完ではありません。昔の禅師が弟子を試す時、弟子が少しでも躊躇して言語で説明しようとすると、禅師は即座に棒で打ち据え、思考意解に陥ることを許しませんでした。
意識の思考作用は明らかで、特に意識単独の思考は現量ではありません。意根と同時に観察されるものが現量です。意識は補助的な役割を果たし、主導的ではありません。意識の占める比重が少なければ少ないほど智慧は深まり、現量に近づき、否定できず後悔もなく、迷いのない確固たるものとなります。この現量観察は非常に困難で、高い修行と智慧が要求されることが分かります。
唐宋代の六祖以降、悟りを開いたと伝わる者は千名以上、禅宗の公案は千七百則残されていますが、これら全てが純粋な証悟ではなく、解悟も含まれています。具体的な数は検証・統計できません。悟りの偈や簡潔な対話・暗示からは、詳細がなく証悟か解悟かを判別できません。たとえ禅定があっても、禅定者全てが証悟とは限らず、禅定なき者は更に証悟できません。禅定中に意根が深く参究して悟る場合、即座に見えて意識思考に陥らないものが証悟であり、意識偏重は解悟、あるいは解悟とも言えません。真の解悟であれば、禅定を修め意根の参究功夫を強化すれば証悟に転じられます。
このような参究功夫には禅定が不可欠です。禅定を得るには色身に気が集まる必要があり、気が集まれば身が定まり、心が定まります。気を集めるには、第一に色身が健康で気脈の運行が円滑であり、強力な勢いを形成して心を凝集できること、第二に散乱や雑念がなく、幻想や妄想にふけらず、諸法に縁取せず世俗の雑事を放下できることです。色身の気が不足すれば気を集められず、気を補うには練気・補気、食補・薬補も可能です。気が生じたら必ず気の動きに順応し、身心を静めます。一旦気勢が形成されれば禅定が現れます。修行は早い時期に、健康で気力のあるうちに始めるべきです。年老いて色身が衰え、何もできなくなってから修行を思い立っても手遅れで、功夫が成り立ちません。修行は身体を修めるものではありませんが、身体の協力を離れてどうして修行できましょうか。
七十五歳の老居士が電話で話してきました。鐘のように響く声で中気が十分、私の声量を超え、多くの二三十代の若者より力強く、この声ならあと二十年は生きられると感じました。禅定の様子を尋ねると「禅定は良好で、意根を使った参究が可能で雑念がなく、気感が強い」との答え。智慧の境界を問うと、彼は「悟り始めの総相智で如来蔵の働きを観察できる範囲」について質問してきました。これを聞いて、ここ数年で彼の功夫と智慧が大きく進歩し、心の器量も広く、善根が深く、大器となる人物だと悟りました。
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