心念心聴は心念耳聞ではなく、心念耳聞とは耳で聞くと言いますが、実際には耳で聞くのではありません。耳識は内心の声を聞くことができず、声に出して念仏する口から発せられる外在的な音声のみを聞くことができます。意識は内外(心と口)の音声をともに聞き、意根は定力の状況に応じて、聞くことに参与する深浅の程度が異なります。心念は声に出さず、念仏に身識がなく、意識のみ、あるいは意根と意識が共に念仏する場合、この意識は独頭意識です。心念の音声を聞く識心は独頭意識が聞いており、意根も共に聞いています。
また別の心念の状況として、意根が単独で念仏する場合があり、この時観察できるのも独頭意識であり、意根も共に内観します。一般的に、定力が浅く内観力がない場合、独頭意識は意根の念仏を観察しにくく、定力が深まって初めて自心が念仏していることを観察できます。心で念仏する時、定力が深まるほど意根が念仏に参与する度合いが深まり、意根自体と独頭意識が自らの念仏する心念をより明晰に観察できるようになります。これは既に念仏三昧の境地に達しています。
意根の心念は咒を唱えることにも現れ、経典を読誦し咒文を唱える際にも意根を共に読誦させることができます。これには禅定が必要であり、禅定が深まれば深まるほど意根の参与度合いが深まります。心が静かな時、独頭意識は意根の心念を観察できますが、意根には言語文字の音声がなく、ただ心念のみがあります。心念とは念心所法です。経典を読誦し咒文を唱える際はゆっくりと黙読し黙誦すべきです。これは意根が専注して共に念じられるようにするためであり、定力が深まると、意根は深く専注して念じるだけでなく、内観力も強まります。ここでは独頭意識と意根の双方に内観力があり、両者を区別するのは容易ではなく、非常に深い禅定と極めて静かな心が必要で、初めて弁別力を得られます。故に双方の内観力に対して誤解が生じやすいのです。
定とは即ち集中力であり、雑念なく専注するためには二つの方法があります。第一に極めて速く念誦する方法で、これにより雑念が入る時間がなく、雑念が追随できず現れなくなります。第二に極めて遅く念誦する方法で、心中に雑念の想いがなくなり、一心に専注できます。ただし第一の極速の方法は一時的に使用するのみで長続きせず、気力や体力を消耗し持続できません。定力の強弱は直接的に意根の一切の法への参与度に影響し、意根がより参与すればするほど物事を成就でき、これが智慧です。故に禅定と定力があれば、仏法の修行に役立つだけでなく、世俗法における生存にも極めて大きな利益があります。
修行はただ一心に努めれば、一つの関門を越えることで急激に進歩します。どうか皆様が世俗法を放ち、一心に仏法に向かい、根本を求め、浮華を取らぬことを心から願っております。
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