問:「あらゆる時、あらゆる場所において智慧の照覧が滞りなく、念々円通して、一つの法も障礙となるものを見ず、一刹那たりとも暫しの間断を生ぜしめることがないか」『宗鏡録』に説かれる悟りの検証基準十箇条の一つ。この言葉をどう理解すべきか。
答:この文は次のように解釈すべきである。悟りを得た後の菩薩は、五蘊世間における一切の造作において、あらゆる時に、あらゆる場所で、あらゆる法の上に、如来蔵の功能作用として観察できなければならない。五蘊自体に独自の作用はなく、全て真如自性の起用であり、心が五蘊世間の仮相に囚われない。この智慧は極めて深遠で、無生法忍の境地に達し、一真法界を分証し、世間・出世間の一切法が全て如来蔵の功能作用であることを証得する。
このような観行の智慧は地前の菩薩には到底成し得ず、初禅以上の禅定を具足し、かつ禅定が退失せず連続して保持でき、深甚な唯識種智を具備していなければ、これほど微細に周到に深透に観察することは不可能である。これが真の真如三昧である。諸仏は完全に真如三昧を証得しているが、地上の菩薩は真如三昧を分証するのみで、未だ完全な真如三昧を証得できない。なぜならば、未だ証得していない法が多く、一部の法は依然として世間相に留まっているからである。
もし唯識種智を具えていない地前の菩薩の悟境を検証する場合、その日常的な観照は人無我の範疇にあるべきで、時処所縁において五蘊無我を観照し、五蘊十八界中の一切法が如来蔵の功徳作用であり、実体としての五蘊が存在しないことを観じなければならない。このような観照智慧を具足するには、第一に真の悟りであることを確認し、第二に未到地定あるいは初禅定を具足不退に保つ必要がある。一旦禅定が退失し、外縁の干渉があれば観照力も退失し、法を見る眼は世間相に堕する。娑婆世界に住む環境は染汚の影響が甚だしく、このような観照功夫を保持することは極めて困難である。一般的に功夫は断続的で連続し難く、禅定は退失しやすく保持が容易でない。禅定なきところに相応する観照は存在しない。
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