衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2024年02月11日    日曜日     第1 回の開示 合計4118回の開示

悟り後の境地

問:「一切の時、一切の場所において智慧の照らすところ滞りなく、念念円通し、一法も障碍となるものを見ず、一刹那たりとも暫くも間断を生ぜしめないか」『宗鏡録』に説かれる悟りを検証する十の基準の一つ。この言葉をどう理解すべきか。

答:この文章は次のように理解すべきである。悟りを開いた後の菩薩は、五蘊世間における一切の所業において、あらゆる時、あらゆる場所、あらゆる法において、如来蔵の功能作用であると観察でき、五蘊独自の作用は存在せず、全てが真如自性の現れであることを悟り、心が五蘊世間の仮相に囚われない境地に至る。この智慧は極めて深遠で、無生法忍の域に達し、一真法界を分証し、世間・出世間の一切法が全て如来蔵の功能作用であることを証得する。

このような観行の智慧は地前の菩薩には到底成し得ず、初禅以上の禅定を具足し、かつ禅定が退失せず持続できること、深甚な唯識種智を備えることが必要である。さもなければこれほど微細に、周到に、深透に観察することは不可能であり、これが真の真如三昧である。諸仏は完全に真如三昧を証得しているが、地上の菩薩は真如三昧を分証しているに過ぎず、未だ完全な真如三昧を証得していない。なぜならば、未だ証得していない法が多く、一部の法は依然として世間相に留まっているからである。

もし唯識種智を持たない地前の菩薩の悟境を検証するならば、その日常的な観照は人無我の範疇にあるべきで、常に五蘊無我を観照し、五蘊十八界中の一切法が如来蔵の功徳作用であり、実体としての五蘊が存在しないことを徹見する必要がある。このような観照智慧を具足するには、第一に真の悟りを確実にし、第二に未到地定あるいは初禅定を具足不退に保たねばならない。一旦禅定が退失し、外部の干渉があれば観照力も退失し、法を見る眼は世間相に堕する。娑婆世界に生きる環境は染汚の影響が甚だしく、このような観照の功夫を維持することは極めて困難である。一般的に功夫は断続的で持続し難く、禅定は退失しやすく保持が困難である。禅定がなければ相応する観照も生じない。


——生如法師の開示
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