まず、心が悪業を造らないと明言されているのに、なぜ過失が生じるのでしょうか。これは心に愚痴と無明があるためです。無明愚痴は根本的な煩悩であり、この根本煩悩によってその他の大中小の随煩悩が生じます。貪りと瞋恚という二つの根本煩悩もまた無明愚痴によって引き起こされるもので、もし無明がなく、愚痴がなければ、貪りも瞋恚も存在しません。無明と愚痴がなければ、さまざまな過失は現れないのです。一見これらの過失は無心の行いのように見えますが、果たして本当に無心なのでしょうか。無心ではなく、煩悩の習性によるものなのです。習気が強いが故に、頭で考えずとも過失を造り出し、時に取り返しのつかない過失に至り、人を深く傷つけたり、甚大な損失をもたらしたり、さらには人を殺害し、三宝を誹謗し、三宝の名誉を毀損することさえあるのです。
世間ではこれらの過失を無心の過ちだと言いますが、故意にそうしようとしたわけではなく、不注意や我慢できずに造り出したものだとするならば、これはもはや無心の過失ではなく、煩悩に染まった心、愚痴の心が存在することを示しています。それは習気の重さを表しているのです。清浄な人にはこれらの過失や過ちがなく、身口意の行いが清らかで完璧であり、過失がありません。魔波旬でさえ数百年、数千年とこれらの人々の過失を探しても見つけることができず、隙がないため、波旬は便りを得て何らかの悪業を造ることができず、やむなく失望して去るのです。よって全ての過失や過ちには心が関与しているため、必ず悪報が伴います。無明愚痴の果報は三悪道であり、特に畜生道に堕ちることが主です。全ての煩悩の中で愚痴が最も断ち難く、貪りと瞋恚を尽くして初めて愚痴を除くことができ、等覚菩薩に至ってようやく最後の一品の無明を断じ尽くします。これにより無明愚痴の堅固さ、微細さ、広範性が窺えます。
愚痴の業で最も重いのは殺人や放火ではありません。殺生の業は地獄に堕ちる原因となりますが、時劫には限りがあり、罪業が消えれば地獄から出られます。しかし三宝を誹謗し、三宝に対して悪業を造ると、その報いを受ける時劫は極めて長く、たとえ三悪道から出て人間界に生まれ変わったとしても、かつて三宝を誹謗した業により、依然として盲聾唖の報いを受けたり、三宝に遇わず、三宝の名を聞くことができないのです。仮に悪業が一部消え、三宝に遇うことができたとしても、法を学んでも心に入らず、門を得ることができず、大いに悩むことになります。全ての悪報の中でこれほど重いものはなく、法を学び解脱することを妨げることは、最大の利益の損失と言えるのです。
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