衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2024年02月09日    金曜日     第1 回の開示 合計4117回の開示

無心の過ちは罪なくとも悪報ある

まず、心が悪業を造ることはないと明言されているのに、なぜ過失が生じるのでしょうか。これは心に無明愚痴があるからです。無明愚痴は根本煩悩であり、この根本煩悩によってその他の大中小の随煩悩が現れます。貪りと瞋恚という二つの根本煩悩も無明愚痴によって生じます。もし無明がなければ、もし愚痴がなければ、貪りも瞋恚も存在しません。無明と愚痴がなければ、様々な過失は現れません。表面的にはこれらの過失は無心によるもののように見えますが、本当に無心でしょうか。無心ではなく、煩悩の習性によるものです。習気が強いため、頭を使わず考えもせずに過失を造り、取り返しのつかない過失に至り、人を深く傷つけたり、甚大な損失をもたらしたり、人を殺害したり、三宝を誹謗したり、三宝の名誉を損なうことさえあるのです。

一般に、これらは無心の過ちであり、故意に何かをしようとしたわけではなく、不注意や我慢できずに造り出したものだと言われます。しかしそう見るならば、これは無心の過失ではなく、心がある証拠です。煩悩に染まった心、愚痴の心があり、習気が重いことを示しています。清浄な人にはこれらの過失や過ちがなく、身口意の行いが清浄で完璧であり、過失がありません。魔波旬でさえ数百年数千年かけてこれらの人々の過失を探しても見つけることができず、隙がなく、波旬は便りを得て何らかの悪業を造ることもできず、やむなく失望して帰ります。したがって全ての過失過ちには心があるため、必ず悪報があります。無明愚痴の果報は三悪道であり、主に畜生道に堕ちます。全ての煩悩の中で、愚痴が最も断じ難く、貪りと瞋恚を尽くして初めて愚痴を除くことができ、等覚菩薩に至ってようやく最後の一品の無明を断じ尽くします。これにより無明愚痴の堅固さ、微細さ、広範性が分かります。

愚痴の業で最も重いのは殺人放火ではなく、殺生業は地獄に堕ちるものの時劫に限界があり、罪業が消えれば地獄から出られます。しかし三宝を誹謗し、三宝に対して悪業を造ると、受報の時劫が極めて長く、たとえ三悪道から出て人間に生まれ変わっても、かつて三宝を誹謗したため、なお盲聾唖の報いを受けるか、三宝に遇わず、三宝の名を聞くことができません。たとえ悪業が一部消え三宝に遇えたとしても、法を学んでも心に入らず、門を得て入ることができず、非常に苦悩します。全ての悪報の中でこれより重いものはなく、法を学び解脱することを妨げることは、最大の利益の損失です。

——生如法師の開示
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