境界にはいかなる法が含まれるのか?境界とは塵のことである。塵とは、私の識心に対立する色・声・香・味・触・法のすべてを指し、人事物理の一切の法を含み、自己と他者の五陰身も含まれる。根と塵が触れ合って識が生じ、識があれば分別が起こり、やがて心が動き念いが生じる。では修行とは、境界を空じるのか、それとも自我を空じるのか?まず私が空じられれば、境界も自然に空じられるのであって、境界が空じられたからといって私が空じられるわけではない。
境界が無ければ、私も無い。境界があれば、私もある。これをどうして修行と呼べようか?もしこれをも修行と呼ぶなら、外道が四禅八定を修めて境界の相を空じながら、ただ自我だけを残している場合、彼らは我見を断ったと言えるのか?いったい誰が外道よりもさらに空じることができようか?境界を修める者とは、もともと境界に従って転じる者のことであり、境界に振り回されるのが凡夫である。私が空じられたなら、まだ塵はあるのか?塵も従って空じられる。もしあなたが空じられなければ、一切の境界が現れるが、もし心が空じられれば、一切の境界は無に帰する。
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